25周年目の吾郎ちゃん『ほんとにあった怖い話』ほんとは38周年目!

(文中、敬称略。すみません)

8月17日に放送されるフジテレビ系列『ほんとにあった怖い話』のエピソード『視える!?』では、香取慎吾が主演を務めるとのこと。吾郎ちゃんこと稲垣吾郎が同番組のホストを務めてから20年目、番組の放送開始から数えて今年で25年周年を迎える。

今年の放送を視聴する人物のなかに、ずっと昔に『ほんとにあった怖い話』の企画書を制作した編集者や、自身の心霊体験を投稿した人物はいるだろうか。というのも、『ほんとにあった怖い話』そのものの歴史は、番組よりも長い。原作が少女マンガ誌に掲載されたのは1987(昭和62)年。昭和から平成、令和を跨いだ38年もの歴史が『ほんとにあった怖い話』にはある。

少女マンガ『ほんとにあった怖い』

単行本化された『読者の恐怖体験談 ほんとにあった怖い話』第5巻の巻末に掲載された募集広告から引用する。

募集!あなたの恐怖体験談 

あなたの体験したコワ~イ出来事

人から聞いた不思議な出来事を

なるべく、くわしく書いて

送ってね。

本誌や増刊号で、まんがにして

発表しちゃいま~す♡

あなたの、とっておき 待ってます!!」

1986(昭和61)年の正月。朝日新聞社の関連企業である朝日ソノラマが創刊した「ホラー・オカルト少女マンガ誌」月刊ハロウィン創刊号が、はじめて書店の店頭に並んだ。キャッチコピーとコンセプトにあるようにホラーに特化した少女マンガ誌で、楳図かずおや伊藤潤二、大島弓子のホラーマンガのほか、稲川淳二へのインタビュー記事、新作ホラー映画のカラーグラビアが掲載されていた。若い女性モデルがホラー映画風のセットに立った写真をあしらった表紙からは、近年のホラーにただよう「アングラ」の匂いが微塵も感じられない。むしろ80年代に特有の、ゴージャスな余裕を強く感じる。

何度か現物を入手しようと試みるも、現在まで現物を入手できていない月刊ハロウィン

そんな月刊ハロウィンには、創刊号の翌月には早くも「読者の恐怖体験談」をマンガ化した短編を掲載している。おそらく創刊号には、先に引用した「読者の恐怖体験」を募集する広告が掲載されていたと思われる。

月刊ハロウィンの売上が好調であったことも手伝い(休刊は1995年)、この企画は読者からの支持を受けた。単行本の冊数から推測すると、毎日、山のように「恐怖体験談」が投稿されて編集部の机を埋め尽くしていたことが想像される。その恐怖体験の山から毎号、月刊ハロウィンには読者が体験~投稿した恐怖体験談をマンガ化した読み切り短編が掲載されるようになる。翌年87年1月には早くも、恐怖体験談の読み切り短編に特化した増刊号『ほんとにあった怖い話』が世に出た。

この増刊号こそ、現在でも放送されているフジテレビ系列『ほんとにあった怖い話』の原点であり原作なのだ。先に引用した募集広告が掲載された単行本の発行日は、1989年5月20日。最初の増刊号から数えて、約2年のあいだに5冊もの単行本が出版されている。それだけ「読者の恐怖体験談」がマンガとなり、単行本の売れ行きが好調であった証左だ。出版された単行本の冊数を正確に把握できていないが、のちに触れるVシネマ版がリリースされる頃には20巻以上にはなっていた。

読者は中高生から20代の女性が中心であり、短編の登場人物たちも若い女性、ときには小学生であることもあった。楳図かずおがブレイクした60年代から連綿と続いた、少女マンガと怪談/ホラーの親和性を伺わせる。「読者の恐怖体験談をマンガ化する」とのコンセプトは、「視聴者が投稿した恐怖体験を再現ドラマ化する」日本テレビ系列の長寿シリーズ『あなたの知らない世界』から発想されたのだろう。違いといえば、『午後は〇〇 思いっきりテレビ』のワンコーナーである『あなたの知らない世界』が主婦層を対象としていたのに対して、『ほんとにあった怖い話』はより若い女性読者をターゲットとしていた点だろうか。『あなたの知らない世界』の視聴者と『ほんとにあった怖い話』の読者は重なっていたとも考えられるが。

エンターテインメント小説の分野で、『新耳袋』などの実話怪談が台頭するのは90年代末期から(『新耳袋』出版そのものは1990年)。エンターテインメント小説に先駆けて、少女マンガの分野では実話怪談が台頭していたといえる。

同じころ、大手映画会社の東映はレンタルビデオ店専用の映画をスタートさせた。それが『ほんとにあった怖い話』映像化への布石を敷く。

Vシネマ版『ほんとにあった怖い話』が実現するまで

遠回りになるが、『ほんとにあった怖い話』が最初に映像化された当時の日本映画とテレビ業界について触れておきたい。当時の映像産業の土壌が無ければ、いまごろフジテレビ系列で『ほんとにあった怖い話』が長寿シリーズとなることはなかったのだから。

『ほんとにあった怖い話』第5巻が書店に出回っていたころ、レンタルビデオ業界は急速に成長していた。だが権利処理などの問題から、リリースできる商品の供給不足に、一時的ながらも陥っていた。そのなかで東映は、自社で製作~配給して劇場公開する映画が(洋画の配給は別として)、劇場での興行収入よりビデオセールスの売上成績が良い点に以前から目をつけていた。江口洋介と織田裕二のデビュー作『湘南爆走族』実写版は劇場での興行収入ではなくビデオセールスによって製作資金が回収できたともいわれる。そうした理由により東映は1989年から、実写・アニメを問わないレンタルビデオ専用のレーベル「東映Vシネマ」をスタートさせた。

東映がVシネマをスタートさせた当初の作風は、同社が得意としたアクションドラマ(主に日本テレビやテレビ朝日で放送されていた)の延長線にあった。出演者も萩原健一や仲村トオル、世良公則や早見優、名取裕子といったテレビドラマに馴染みのある顔ぶれが中心で、スタッフもテレビシリーズから引き継がれていた。朝日新聞が売上高を報じるほどの高成績を上げたため、直ちに他社が大手映画会社、テレビ番組制作局、出版社など業種を問わず市場に参入。Vシネマは短期間ながらもバブル状態に突入する(後の「Vシネマ=ヤクザ・ギャンブル・お色気」のイメージが形成され始めたのは、Vシネバブルがひと段落した後であり、当初はそうでもなかった)。

Vシネマバブルは市場に参入する企業が多岐にわたったため、スタッフの奪い合いとなり人材不足を生じさせた。そのため助監督修行を積んできた新人監督(といっても30代過ぎ)から民放テレビのプロデューサー、脚本家やカメラマンなど新人スタッフがキャリアアップを実現させる、絶好の機会を提供することとなる。同時に、他社との差異化を図る目的やセールスの安定もあり、現在では考えられないほど創作の自由度が保障されたブルーオーシャンでもあった。プロデューサーやオーディエンスがジャンルに求める最低限の要求を満たしさえすれば、意欲的な作劇や演出が実現できる余地があった。だからこそ、当時としては大手が拒否するほど冒険的であった『ほんとにあった怖い話』の作劇や演出は実現する。

そんなバブル期の或る日、映画監督を生業にしたくはないがホラー映画は作りたい、家電メーカーの営業マンが日活撮影所の関連企業を訪れた。彼の名は鶴田法男。

巨匠もビビった『ほんとにあった怖い話』三部作

玄田哲章のナレーションに合わせて心霊写真が現れては消えた後、タイトルが現れて第一話『ひとりぼっちの少女』が始まる。1991年、少女マンガ『ほんとにあった怖い話』が実写映像化された最初のものだ。『ほんとにあった怖い話』は、数えきれないほど存在する「マンガの実写映像化」のひとつでもある。ただし「実話の再現」を前提とするコンセプトのため、現実社会を舞台とするリアル志向のマンガであった点が、『ほんとにあった怖い話』が成功するキモでもあった。

当時のビデオレンタル業界が急成長を遂げ、一時的に商品が不足。その不足を補うかたちでVシネマバブルが生じたことは先に述べた。家電メーカーで未公開映画(出来の悪いホラー映画が多く、これが売れるくらいなら良いものを自分で作りたい、そう思ったこともモチベーションとなる)のセールスを担当していたサラリーマン、鶴田法男は職業を映画監督としたくはなかった。映画館を経営する両親のもとで育った子ども時代、座頭市シリーズなどを製作し続けた大映が倒産していく過程を身近に体験したため、映画とは経済的リスクが大きい職業であることを痛感していたからだ。でもせめて、一作くらいは撮りたい映画を撮って世の中に残しておきたい。その原作としてピンときたのが、営業まわりの書店で見つけた『ほんとにあった怖い話』増刊号だった。

当時のレンタル店に卸されていたホラー映画、こんな感じ

営業マン時代に鍛えあげた交渉力で朝日ソノラマから原作権を自腹で買い、低予算に収まりつつ収益も充分に上がる収支の予想を弾き出した企画書を制作。それを取引先の制作会社に提出した。ホラー映画誌のコンテストで入賞した、自主製作の短編映画と合わせて。

短編の完成度に加えて、取引先企業の営業マンとしての信頼が大きかった。なんと、その企画書に社長がゴーサインを出した。結果的に1991年から92年まで、三作のVシネマ版『ほんとにあった怖い話』が製作~リリースされてしまう。営業マンからいきなり全国のレンタル店に並ぶ商業監督になる、という事態は、後にも先にもそう起きるものではない。近年では『ゾゾゾ』の皆口大地が『ゾゾゾ』(YouTubeの心霊バラエティ)→『フェイクドキュメンタリーQ』(YouTubeの短編フィクション)→『イシナガキクエを探しています』(テレビ東京の深夜ドラマ)へとキャリアを重ねていった例外はあるものの、そうした90年代Vシネマの懐の広さこそ、後の日本映画と民放テレビ、アニメ業界を豊かにしたのである。

Vシネマ版『ほんとにあった怖い話』ワンシーンより

ゾゾゾ皆口さんが90年代前半にデビューしていたら、おそらくVシネマから頭角を現して鶴田法男・黒沢清と並ぶホラーの巨匠になっていたと思う。落合さんや長尾さんは役者デビュー?

そして一足先に商業デビュー、兄と制作した『星空のむこうの国』で是枝裕和を大泣きさせた小中千昭と組み、鶴田法男は隠していた爪を大いに発揮する。特に『ほんとにあった怖い話 第二夜』に収録されたエピソード『霊のうごめく家』は、同じころ松重豊を主演に『地獄の警備員』を監督した黒沢清を大いに悔しがらせた。「実話怪談」を映画にするという黒沢清と彼の仕事仲間たちの野望を、特殊メイクもゴア描写もなく見事に実現したのだから。

そして黒沢清はリチャード・フライシャー(『トラ トラ トラ!』)やドン・シーゲル(『ダーティーハリー』)、エドワード・ヤンや北野武の作風とあわせて鶴田法男の演出を自作に取りこみ、自家薬籠中の物とした。黒沢清が柴咲コウを主演としてフランスで監督した映画『蛇の道』が怖いとすれば、そこにはフライシャーや北野武と共に、鶴田法男と小中千昭の作風が影を落としているのだ。また黒沢清は演出の教材として『霊のうごめく家』をたびたび用いる(なぜドア越しに立っているだけの俳優が「幽霊」に見えるのか?それを実現させるには具体的に何をすればよいか?と教え子に語る)。ならば『ドライブ・マイ・カー』でブレイクした教え子・濱口竜介も観ている筈だが…。

史上最恐の哀川翔が登場する、大映Vシネマ版『蛇の道』。ヤクザ映画の皮を被って世に出たサイコ・サスペンスの傑作(グロは無いけどグロい)。ダンカン・阿部サダヲ出演の姉妹編『蜘蛛の瞳』には本筋と無関係に幽(以下省略)

『蛇の道』リメイク版。まさかフランス映画としてリメイクされると思わなかった。

是枝裕和のフェイバリット『星空のむこうの国』。監督の小中和哉は、小中千昭の兄(もちろん本作にもスタッフとして参加)。長野博がウルトラマンになる『ウルトラマンティガ』では、兄弟で演出・脚本を手掛けた。

Vシネマ版『ほんとにあった怖い話』が特筆すべき点は、ホラーでありながら特殊メイクを駆使したゴア描写を一切、用いなかった演出にある。またホラーといえば日本の景観と相性の悪いものと思われていたが、1991年当時の日本の建築物を舞台として成立することも示した。

また1991年前後は、悪名高い宮崎勤事件の余波を受けて「ホラー」へのバッシングが尾を引いていた時期でもあり、海外のホラー映画=血まみれ人体グシャグシャの映画と判断されてレンタル店から一掃されていた。だが『ほんとにあった怖い話』は原作の愛読者からの支持も手伝って、その自粛から逃れることが出来た。Vシネマ版『ほんとにあった怖い話』は、原作の愛読者である女性ファンの支持があったからこそ、三部作の製作と流通を可能とした。そうして女性ファンに支持されていたゆえに、テレビドラマ化への回路を開くこととなる。

いまや「人種差別・性差別に異議を唱えた名作ホラー」になってしまい、CHANELが修復の資金を出した『ゾンビ』も、昔は「犯罪者予備軍が観る映画」でした。

宮崎勤事件の余波をくらい、ゾンビ映画から東宝版メタルヒーローになった『ミカドロイド』。これも東宝が製作したVシネマ。

リリースから7年後。日本映画とテレビ業界、出版業界は『リング』シリーズのヒットによりホラーブームに沸いていた。次に製作するドラマの企画に頭を悩ませていたフジテレビのプロデューサーは、レンタル店に足を向けては日本のホラー映画やVシネマを漁っていた。そのなかで、最もフジテレビのカラーにふさわしいと感じたのが、他ならぬVシネマ版『ほんとにあった怖い話』だった。

テレビの中からこんにちは

黒木瞳とミポリンの『ほんとにあった怖い話』

フジテレビのプロデューサーは早速、鶴田法男の携帯電話に連絡を入れて企画開発を開始。当初は『世にも奇妙な物語』の前身『奇妙な出来事』のように、深夜帯で放送することを想定されていた。だが担当部長の鶴の一声で、いきなり金曜日のゴールデンタイム、夜21時から23時までの2時間枠で放送される方向に転換。その結果、黒木瞳や竹中直人、中山美穂や窪塚洋介が出演するオムニバス形式のドラマとして1999年8月末、フジテレビ版『ほんとにあった怖い話』第一回が製作~放送される運びとなった。その後、2時間ドラマ版は2000年、2001年、2003年と製作と放送がつづく。吾郎ちゃんが小学生を囲んでホストを務めるレギュラー番組となるのは、5年後の2004年1月1日から。

『ほんとにあった怖い話』38周年

朝日ソノラマの月刊ハロウィンを起点とするなら、『ほんとにあった怖い話』は今年で38年を迎える。80年代から始まって90年代、ジャパニーズホラーが終息した2000年代、2010年代を通じてレギュラー番組であり続けたのは、ひとえに再現ドラマの魅力によるところが大きい。

筆者だけではなくファンが一致して大傑作だと太鼓判を押すエピソードに、2009年に放送された『顔の道』がある。奇妙なタイトルだが、その通りの内容だ。

佐藤健が演じる主人公は夏のある日、恋人の女性に車を出してもらい釣りに出掛ける。その帰路、山道にポツンと設置された電話ボックスと空き家となったペンション風の民家のそばを車が通過したとき、ふと佐藤健は「何か」を視る。すると車を運転していた女性は急に眠気に襲われて路肩に停車。そのまま女性は寝入ってしまい、佐藤健はひとり誰もいない道路に放り出されてしまう。

そのうち彼女は起きるだろ、とでも考えたのか(この感情の機敏を、台詞に頼らず演出する)、釣り具の手入れをして時間を潰す佐藤健だったが、ふと「なにやってんだ」と呟いて我に返り、友人に助太刀を頼もうとガラケーの携帯電話で連絡を取ろうとする。

たぶん佐藤健が連絡したかったのはモモタロスと思われ…

このあいだ佐藤健は車から離れないが、神妙な表情で釣り具の手入れをする演技から「できれば怖い思いは避けたい」と感じて行動を躊躇する感情が、それとなく観る側に感じさせる。嫌になるほどの暑さを感じさせる映像や、喧しいセミの鳴き声が、じわじわと佐藤健に迫る焦燥感を充分に伝えて余りある。

だが携帯電話の電波は「県外」。仕方がないから、「何か」を視た電話ボックスに嫌々ながら足を向ける。しかし電話ボックスは故障している。ひょっとしたら誰か居るものかと傍にある民家に足を踏み入れたら、あにはからんや、視聴者の予想を裏切るトンデモない幽霊が現れた。

あのデカい化け物、どうやって演出したのか仕掛けが分からない。VFXにも見えるが、それにしては物質的な存在感がある。しかし輪郭が微妙にぼやけて陽炎のように揺らめいているのに、動きはしっかりしている。どちらにせよ、ありきたりな幽霊ではないものが何の予告もなく登場したときは「ええ!!なんだコイツ!?」と恐怖より嬉しい驚きを感じた。もちろん怖いには違いないが。

あんな化け物、仮面ライダーを呼んで倒すほかに打つ手はなかろう。つい佐藤健つながりで『仮面ライダー電王』が化け物を倒す画を妄想してしまう。それはともかく、ほうほうの体で空き家から佐藤健が逃げ出したときには日が沈み、車に逃げ帰ると彼女が起きていた。ああ助かったかもと感じる間もなく、車内に据えられたカメラの画面いっぱいを「いまからナニカ現われまっせ!」といわんばかりに、真っ暗なフロントガラスが占めている。そういえば件の幽霊、首から上が無かったけど顔は何処に…。期待を裏切ることなく、顔はちゃんと現れてくれる。しかもデカい満面の笑顔で。

マジでこんなのが出てきます

『顔の道』に限らず、この頃の再現ドラマは単に怖いだけで終わらないエピソードが多かった。短い時間内にキャラクターがあり、血の通ったドラマがあり、サスペンスがあり、映画の基本的ツボを押さえた演出があり、びっくりする演出が成功して、生理的不快感やイヤミス的な結末はなく、カタルシスを感じさせて終わっていた。近年はちょっとばかり事情が異なるが、それは過去の作劇や演出の技能が、いかに高度だったか、その後継が難しいかの証左だ。私だってエラそうなことを書き連ねてきたけど、いきなり「オマエ、監督やってみろ」と言われたら…。

活動屋の職人技なのである。倒産後の大映の監督たちが80年代、テレビでふたたび敏腕ぶりを発揮した怪奇ドラマを作っていたように。そこはVシネマ版も変わらない。時に、登場人物たち、こと女性たちは死者と心を通わせもする。そのとき『ほんとにあった怖い話』は他のホラー映画や心霊動画にはない、後味のよい余韻を感じさせて終わるのだった。

今年の『ほんとにあった怖い話』では、そうした映画とテレビドラマのメディア間交流の産物といえる往年の楽しい怖さが戻ることを期待したい。

そうそう、『ほんとにあった怖い話』を評価した映画監督は黒沢清のほかに、もうひとりいる。2020年8月、NHKで放送された『たけしのこれがホントのニッポン芸能史』のテーマは「ホラー」。その番組中、まさかのVシネマ版『ほんとにあった怖い話 第二夜』から、『霊のうごめく家』の一部を抜粋した映像が放送された。

つまり『ほんとにあった怖い話』は、「世界のキタノ」こと北野武お墨付きのシリーズでもあるのだ。後世が日本映画史を編むときは、北野武から『ゴジラ-1.0』オスカー受賞、宮崎駿から新海誠の諸作と合わせて、『ほんとにあった怖い話』の名は残っているのだろう。

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