皆さんは、街で疲れたとき、どうしてますか。
都会ってほんとに、一息つける場所がないですよね。スターバックスはどこも満席です。店内を見渡せば、澄まし顔でMacBookを開いているジャケット・白シャツ・髭生やしが金太郎飴のごとくガン首を揃えています。あんたらはいったい、そのパソコンで何をしてるんだ。今時プログラミングならWindowsでも大抵の要件は果たせるぞ。なぜわざわざバツボタンが左上にあるような、直感的ではないUIをこしらえたオペレーティング・システムにしがみつくんだ。そう思いながら、トイレを借りるフリして店内中央突破ついでにショルダーハッキングをかましてみれば、なんと某掲示板のまとめサイトを見てるではありませんか。
なるほど、まとめサイトを見るなら高い金を払ってでもMac OSにする必要があるな。そう納得して店内の奥に行けば、「トイレの貸し出しはしておりません」と書かれた貼り紙。Windowsユーザはクソをひるのも許されないのかと陰鬱な気分になりながら、退店することになります。
ウィンドウズといえば、散歩がてらウィンドウショッピングするのもいいな。そう思って近くの商業ビルに足を運んでも、同様の壁にぶち当たります。ABCマートの、試し履き用に用意された背もたれのないスツールは、家族サービスで疲れ切った表情をしているお父さんが占領しています。目線を上げれば、色とりどりのスニーカーが並んでいます。どれも、もののけ姫のジコ坊が履いていた高下駄のごとく、ソールの分厚いものばかり。そんな退屈しない景色が広がっているにもかかわらず、お父さんの焦点はどこに向いているかはっきりしません。パパは、何を今、見つめているの。

わかるよ、お父さん。あなたは靴も服も興味なんかないよね。そもショッピングモールに用事なんかないよね。ほんとは子供のめんどうをお母さんに任せて、最上階のレストラン街にしかない喫煙所でスポーツナビの一球速報を眺めていたいんだよね。休まるところを知らない休日のパパに同情しながら、他に羽を休める場所はないものかと退店することになります。
羽を休めるといえば、私が一番好きな動物はハトであることを思い出しました。すっかり野生を忘れ、一丁前に横断歩道を青になるまで待つことができるほどに人間社会に適応した彼らは、公園に行けば簡単に出会うことができます。そうか。公園にはベンチもある。座ることができる上に、ハトにも会える。人生の楽園は意外と身近なところにある。心の中の西田敏行がそうナレーションしてくれます。

Googleマップのガイドに従って、最寄りの名もなき公園に足を運んでみます。何ということでしょう、誰も座っていないベンチがたくさんあるではありませんか!参加プレイヤーが私だけの寂しい椅子取りゲームとばかりに、最も日のあたる一等席に飛びつきます。
しばしば話題となる、公園のベンチがわざと座りにくく設計されつつあることなんて、今はすっかり忘れています。公園のベンチなら私は、ほうじ茶を飲むと決めています。これぞ実家のような安心感。公園をマイホームと捉えて良いものか。私のような人間を都市から排除するために、公園のベンチは座りにくい設計になっているのでしょう。

周りを見渡すと、ハトが一箇所に集中していることに気づきます。輪の中心には、恍惚とした表情でジップロックからパンくずを撒き散らすお爺さん。さながら花咲か爺のようです。ここ掘れワンワンならぬ、エサくれポッポーといった様相です。人望よりもハトからの承認が欲しいお爺さんと、タダメシにありつきたいハトによる、ギブアンドテイクの関係が構築されているのです。
彼の行為は一見、動物愛護の観点で模範的な行動に映るかもしれませんが、決して許されることではありません。ハトは本来、自分で餌を見つけ出す能力があります。にもかかわらず、自然を求めて公園に足を運べば(羽を広げれば、なのかな)、栄養価の高いニンゲン様御用達の食料に簡単にアクセスできてしまう。そうなれば、人間にとっても動物にとっても過酷な、都会という名のコンクリート・ジャングルで生き抜くためのサバイバル精神を失ってしまいます。長期的に見て、ハトのためにならないのです。これを合成の誤謬といいます。
我々人間も、被害を被ることになります。ハトは公園に集まり、メシを食い、クソをもよおします。残念ながら、腹ごしらえを終えたハトにとっては、公衆衛生を担保するために細部に粋をこらした現代都市の街並みも全て、トイレに見えるでしょう。澄まし顔で、電柱の上からゲリラ的・戦術爆撃を展開します。
経済学には「外部不経済」という言葉があります。あるファクター(個人や組織)の経済活動が、第三者に対して意図せず影響を与えてしまうことを指します。今まさに、お爺さんの善意から来る(本人に聞いたわけではないので、動機は不明ですが。ハトの腸内を経由し町内をクソだらけにすることで世界征服を企む、目的のためにめちゃくちゃ遠回りな手段をとるタイプの怪人である可能性もあります)行動によって、街が迷惑を被っているのです。騒々しいラッパ吹きが、こんなところにもいたのです。
寓話「花咲か爺さん」が含む教訓は、善良さと欲深さの対比にあります。令和においては、善良さが時に人を不幸にすることもある。「ハトにパンくず撒き散ら爺さん」の短絡的に見える行動は、極めて示唆に富むものと言えるでしょう。私は義侠心から、わざとハトを威圧するように近づきながら、公園の出口へ向かいます。逃げてゆく、白い鳩。世直しのつもりでとった私の行為は、果たして愛と言えるのでしょうか。
結局、休憩する場所を見つけることができませんでした。私の口から出る「ちょっと休憩していかない?」は決して、スケベ・マインドからくる言葉ではありません。切実に、座りたいのです。
おめーの席ねぇから!誰からも受け入れてもらえず行き場を失った私は、沈みゆく太陽を眺めながら、街の、片隅で、膝を抱え続けるのです。
今日ご紹介する昭和ポップスは青い三角定規「太陽がくれた季節」です。
この曲について話すことは特にありません。