【放送100年】ラジオがある生活 1/3 〜あの日を忘れない〜

テレビよりラジオ派だったりする虎太です。これからの入院生活、暇つぶしの機会にブログを小出ししていこうと思います。まずはじめに東日本大震災により被災された皆様におかれましては、深くお見舞い申し上げ、哀悼の意を捧げます。

突然ですが、皆さんは普段ラジオを聞かれますか?ラジオと聞いて古臭いイメージを持たれるかもしれません。

ほとんどの方が聞かないんじゃないかと個人的には思っていますが、昭和ポップス倶楽部(Slack)ではラジオ部があるぐらい、ラジオに精通されてるメンバーも結構います。今年は昭和100年であると同時に放送100年でもあります。そんな節目にラジオ生活を通じて経験してきたこと感じることを綴っていきますので、ぜひ最後までお付き合いください。

現状

ラジオを聞くようになって約15年が経とうとしています。現在僕は一人暮らし5年目ですが、自宅にテレビが無く、日中はもっぱらラジオを垂れ流しして過ごしています。簡易的な時計代わりになるし、天気・ニュース、音楽、トーク、スポーツ実況中継に至るまで片手間耳だけで情報収集できる優れものなんじゃないかなって。

また、先日までは運送業を5年弱やっていましたから、運転中もよくラジオをつけるケースが多々ありました。眠気対策にもちょうど良かったりするんです。

テレビやネットという映像が当たり前にある世の中でなぜこんなにも音声しかない放送メディア;ラジオ沼にハマってるんでしょう。

きっかけ

ある日突然勝手にラジオ好きに目覚めたわけではありません。

それは小学校6年生の夏休みでした。当時いつものように週末になると、年後の兄の同級生(先輩)宅で夜3世帯合同ホームパーティーしていました。たまたま別室で何気なく手に取った自由研究の本を読み始めました。今年の自由研究は何にしようかな〜ぐらいでしたね。読み進めていくと電源がいらないラジオの存在を知り、大変強い衝撃を受けました。その後近くにあった携帯ラジオを触らせてもらい、初めて能動的にラジオを聞く経験をしました。それまでは車内等ラジオが流れていても、あくまで受動的に過ぎませんでした。

それ以降ラジオのことが気になって仕方なかったので、ラジオに関するあらゆる本たちを連日図書館で読み漁りました。いよいよ冬のクリスマスの時期になり、サンタさんにプレゼントとしてラジオをお願いしました。無事クリスマスの朝になると枕元にはちゃんとラジオがあり、その日以降壊れるまで隙があらば四六時中聴き続けることになるのです。もちろん、あの日の未曾有の出来事も例外ではありませんでした。

ソニー 3代目防災ラジオ:ICF-B02 手回し発電により使用可。AM/FMラジオのみならず、LED懐中電灯とランタン、当時のガラケーへ給電も可。受信感度が高めなのも高ポイント。

3.11の記憶

午後2時46分18秒 三陸沖を震源に東北・関東を中心に全国広範囲を巨大地震と巨大津波が襲いました。マグニチュードは国内史上初となる9.0を記録し、世界で5番目に大きな規模の超巨大地震となりました。メンバーの中には東北出身者の方も多く、想定を超える甚大な被害だったことでしょう。ところで僕は卒業式を控えるちょうど1週間前、当時は日直担当、6時限目の移動教室(英語)を控えつつ片づけ中に下から突き上げるような強く長い揺れに襲われました。3分ほど続いた揺れも弱まったのも束の間、再び激しい揺れが何度も襲いました。机の下にすぐさま隠れ、身の安全を確保しました。揺れの間女性担任が教室のドアが閉まらまいようにと、大の字になって踏ん張り続けてた光景は今も忘れることはありません。

今まで経験したことのない強く長い揺れがおさまり、校庭に避難をしたら、軽い地割れがあちこち起きていました。幸いにも千葉県成田市には死傷者や津波がありませんでした。迅速かつ正確な情報、保護者によるお迎えも来るまでには長い時間を要し、校庭から体育館へ二次避難もしました。震度5強から6弱に上方修正されたことと引き続き千葉県にも大津波警報が出ていること以外の情報(防災無線)がありません。容赦なく何度も襲う余震に不安や恐怖で泣いてしまう子が多く、強く胸が締めつけられました。本当に何とかならないものか考えていました。

そこで、「ラジオが流せれたら、情報が行き渡り、みんなを安心させられるかもしれない」と思いつきました。当時放送委員会だった僕はダメ元で先生にNHKラジオを校内放送で流させてもらえないか掛け合うことにしました。「やれるならやってみてほしい」とGOサイン。数ヶ月前に避難訓練もあった際に半ばイタズラ感覚で放送室のラジオチューナーをいじったことがある記憶を頼りに早速操作してみました。無事全校内からラジオが流れ出したのです。外に出て持ち場に戻るとうってかわってみんなが安堵している様子がじわじわ伝わり、「やって良かった〜」と安心しました。ちなみに親のお迎えが来た後もこのまま流れ続けていたようで、後日表彰されたのはここだけの話。

親によるお迎えが夕方に来て、後に進学する母校の中学校の体育館に向かい、そこで一泊しました。図らずも愛用していた防災ラジオが大助かり、乾電池不足していた夜、手回し発電でラジオを聴きながら当時のガラケーを充電出来るではないか。怖いながらも緊急地震速報を即座に聞けて揺れに備えられる安心感は計り知れません。

まとめ

このブログは昭和ポップスに関連づけたラジオ記事というよりは、単なる震災経験談みたいになりました。震災があって、この経験を通じて、ラジオ放送の重要性を肌身で学びました。防災訓練はあってもなかなかピンと来なかったんで。未だ残るアナログメディアで遅延がほとんどないことが強みです。その点においてはラジオに勝るメディアはないと思います。背景には関東大震災があり、正確かつ迅速な情報提供が目的でラジオが始まりました。その辺の歴史のことは次回書きます。

書き足りてないので、続きます。次回は歴史を僕なりにまとめてみたり、震災以外のラジオエピソードも書いてみようと思います。差し支えない範囲で皆さんの震災経験談をお寄せください。それでは次回もお楽しみに。

B-型・寅年/漢字表記は『虎太』
中学時代に地域の演奏会で昭和ポップスの数々を演奏したことがきっかけ。
ジャンル・年代は不問で広く浅く聞き、歌います🎤日頃コロコロと対象が変わります。つい、歌(ボーカルや詞)より伴奏(編曲やサウンド)に耳が行きがちの自称音質マニア。
ブログ投稿は初めてですが、違った深い切り口から気ままに投稿しますので、宜しくお願いします(添削✒️大歓迎!)。不定期ながら、歌唱模様をYouTubeにアップするので、チャンネル登録お願いします。
【取り組んでること】
・オリジナル・カラオケ音源収集
・昭和の音楽番組の放送各種資料収集
・不定期のYouTube発信
【職業】
物流・運輸業
【昭和ポップス以外の特技/趣味】
トランペット/読書、ラジオ、スケッチ、科学・機械系、スポーツ観戦(巨人ファン)

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