【イベント】池田潤氏にきく!昭和ポップストークイベント〜音楽を支えた裏側に迫る〜

2023年3月18日、「平成生まれによる昭和ポップス倶楽部」にて月に一度のイベントを開催しました。

今回のイベントは、なんと!キャンディーズやサザンオールスターズの初代マネージャーを務めた池田潤さんをゲストにお招きしてお話しいただくという内容。リアルとオンラインのハイブリッド開催にて、当時の貴重なお話をお届けしました。

また、今回のレポートは池田さんのご厚意によって一般公開とさせていただきます。ぜひ多くの人の発見につながれば幸いです。

池田潤氏にきく!昭和ポップストークイベント

池田潤さん

今回ゲストとしてお招きした池田潤さんは、渡辺プロダクションに入社後ブレイク直前のキャンディーズのマネージャーを担当。その後アミューズに入社し、サザンオールスターズの初代マネージャーを務めます。アミューズは今やサザンを始め福山雅治さんや星野源さんなどを抱える大企業ですが、池田さんはその創業期を支え、専務取締役も務めた方です。現在はアミューズから離れ、タクシーの運転手をしているというユニークな経歴をお持ちでもあります。

これまでも何度かゲストをお呼びするイベントを開催してきましたが、実際に昭和ポップスが作られる現場にいた方からお話を聞くのは初めて。しかもそれがこんなにビッグな方とは、本当にお受けしていただき感謝です!一体どんなエピソードが飛び出してくるのでしょうか!?

当日は夜19時より、イベントがスタート。以下からは、いただいた言葉をなるべく忠実に伝えるため、池田さんによる語りの形式でお届けします。途中で挙がったメンバーからの質問にも答えていただいております。


渡辺プロダクションでキャンディーズを担当

1974年に大学を卒業し、関西から上京して渡辺プロダクションに入社しました。半年間の長い研修を経て、僕は制作部というマネージメントセクションに配属されることになりました。そこでまず「お前はキャンディーズをやれ」ということになったんです。

大学を卒業しキャンディーズを担当

キャンディーズは当時「危い土曜日」という曲を鋭意プロモーションしている時期でした。半年間の研修はあったものの、現場のマネージャーとは一体何をやるんだろう?ということは全くわからない中で、先輩社員にいろいろと聞きながら仕事を進めていきました。

当時のキャンディーズはまだ『夜のヒットスタジオ』などのようなビッグな歌番組に出られるようなポジションにはありませんでしたが、「とりあえず歌を歌えるような番組に出よう」ということで、当時あったお昼のワイドショー番組の中の歌のゲストコーナーに出たり、『8時だョ!全員集合』や『レッツゴーヤング』という番組にもレギュラーで出演はしていました。キャンディーズという名前を命名してくださったのも、レッツゴーヤングの担当のプロデューサーの方でしたね。キャンディーズは業界からはとても可愛がられていて、とにかく非常に忙しい毎日を過ごしていたんですが、なかなか曲のヒットには恵まれず、さてどうしたものかというような状況でした。

キャンディーズ初めてのヒット!

そんなときに初めての大きなヒットとなったのが「年下の男の子」(作曲・編曲:穂口雄右)だったんです。ディレクターの松崎澄夫さんがグループサウンズとして過去に活動していて(アウト・キャスト)、そのメンバーに、穂口雄右さんという方がいました。そのこの曲だったんです。

「年下の男の子」で強く記憶に残っているのは、レコーディングのときのこと。
昔渋谷に、ライブハウスの走りみたいなものとして有名な「ジァン・ジァン」という場所がありました。今のライブハウスと比べるとちょっと違って、文化の香りがするところでした。そのジァン・ジァンの奥にレコーディングスタジオがあったんですよ。小さなレコーディングスタジオで、ボーカル録りぐらいしかできないところなんですけど、そこをレコーディングエンジニアの吉野金次さんが自分のスタジオとして持っていたんです。吉野さんは細野晴臣さんやはっぴいえんどのアルバムのクレジットを見ると必ず名前が出てくるようなすごい方なのですが、キャンディーズもなぜかこの吉野さんにお世話になっていました。そのスタジオでいったん「年下の男の子」を録ったんですが、松崎さんが納得いかなかったということもあって、「やっぱりやり直そう」ということになり、ランさんにタクシーでもう一度来てもらって録り直したというのをすごく覚えています。

この話からもわかるように、渡辺プロダクションは所属タレントのレコードの原盤制作を自社でおこなっていたんです。これは社風ではなく社是とか業務命令のようなものです。レコード会社に音作りを任せるのを良しとしない社風だったんですよ。つまり、渡辺プロ側のディレクターである松崎さんとは別にレコード会社のディレクターもいるので、レコーディングの現場には必ず二人ディレクターがいることになる。意見の衝突が起こることもありましたが、みな大人なのでよいバランスが保たれていました。
ソニーのディレクターは中曽根皓二さんで、その後は若松宗雄さん(のちに松田聖子さんを発掘)になり、それから酒井政利さん(山口百恵さんのプロデューサー)。この3人が担当されましたね。
キャンディーズの場合はソニーの人たちも口出しをするんだけど、最終的には松崎さんが決めていました。皆が松崎さんの力量を認めていたからだと思います。

売れる、ということを実感

「年下の男の子」がヒットして僕が感じたこととしては、芸能界って売れるか売れないかがはっきりしている社会で、需給のバランスがほどよいところがあんまりないということ。売れていない時はもう本当に「お願いします」「出してください」と言うことばっかりで、レコードのテスト盤を持って行っても捨てられてしまうようなこともありました。ところが「年下の男の子」がヒット曲として認知されてからは、「頼むよ」「うちの番組に出てくれよ」というようにコロッと需給バランスが変わるんです。

そう言いながらも、一日24時間という時間しかないので、すべての要望にお応えはできない。そうすると、「売れない時代にこれだけやってやったじゃん」「俺が育ての親だ」的なことを言う人が、各局一人や二人は必ず出てくるんです(笑)。「そうか、売れるっていうのはこういうことなんだ」と実感しました。

でもこのヒットのおかげで、この仕事において「こういう仕事の仕方をするということが間違いではないんだな」という手応えをつかむことができた気がしますね。

キャンディーズとの関わり

キャンディーズの3人は、ものすごくいい人たちでした。仲がいいし、裏表がないというか。
よく言うじゃないですか、外面はいいんだけど、裏では性格が悪いみたいな(笑)。彼女たちは本当にそういうことのない人たちでした。
僕は大学を出て初めて担当したのがキャンディーズだったので、「芸能界ってそういうものなんだ」と刷り込まれちゃったんですけど、その後そうじゃない例にたくさん遭遇して(笑)。その都度「あ、やっぱりキャンディーズって素晴らしかったんだな」と思いましたね。

Q:キャンディーズが売れたときにスケジュールを詰め込もうとしてくる人への対応や断り方はどうしていたんですか?

引き受けるも何も、そもそも時間がないというのが前提です。そのうえで優先順位のポイントの一番は、本当にお世話になっていたか?ということ。

たとえば出版社なら購読部数を、テレビやラジオは視聴率・聴取率を気にしますよね。その数字を最大化するためには、売れていない人ばかりを出しているとディレクターは上から怒られてしまいます。「いや、この子は絶対売れます」とか「これはいい曲なので流します」とある程度ツッパることも大事だけれど、全てにおいてそうするわけにもいかない。もちろんプロダクション側は売れると信じてやっていますが、ディレクターたちだって社内で戦っているんです。
だからそんな中で一緒に信じてやってくれた人や乗っかってくれた人、賭けてくれた人たちのところには、やっぱり一番に駆けつけますよね。結局人と人とのつながりです。

二番目は「数字」。自分たちにとって、影響力があるといった意味で「おいしい」番組に出ることももちろん大事です。

梓みちよさんを担当

キャンディーズ時代は、スケジュール帳が隙間なく入っていることが良しとされていたんです。11時からの仕事が12時に終わって、次が14時だったりすると、「そこに何か(仕事を)突っ込んどけよ」と言われてましたから。それがスタンダードなんだというふうに思っていました。

ところが2年半キャンディーズを担当した後、人事異動で梓みちよさんの担当になったときのことです。ご挨拶に行ったら、みちよさんから「池田さん、忙しくしちゃダメよ」「私はキャンディーズと違うからね」と言われたんです。そのくらいの方となると、もう歌番組に出るのは『夜のヒットスタジオ』くらいだから、そのためには仕事を忙しくバタバタとこなすすのではなく、自分が生きていく上で歌や芸事をどう捉えるかをじっくり考えて取り組もうとしていたんですね。

梓みちよさんを担当したのは半年ほど。それまでの僕はなんとか歌手をヒットさせなきゃいけないし、ヒットしてすごく忙しい毎日こそが売れていることであり、目指すべきことだと思っていましたが、みちよさんからはそうではない生き方があるんだということをすごく教わりましたね。

とはいえ、なかなか貪欲な方で、常に彼女はカバー曲を探していました。「最近あなたが知っている範囲でなにかいい音楽を知ってる?」と聞かれて、「例えばこんなのはどうですか」と答えたこともありましたね。「今こんな曲が世の中ヒットしてるみたいですけど」「ああ、それいいかもね」なんてやりとりをして。向上心が豊かなんでしょうね。 僕が提案した楽曲が採用されると嬉しかったです。

Q:マネージャーという仕事について。実際にマネージャーをされてみて入社前のイメージと違ったことはありましたか?

まず口うるさく言われたことは「君たちはマネージャーだ。付き人ではないぞ。プランを立て、本人たちと話をして、アーティストたちをリードしていく立場。衣装を持って一緒についていく仕事じゃないよ。」でした。色々な先輩社員から口酸っぱく言われましたね。

渡辺プロダクションを退社、そしてアミューズへ

キャンディーズは途中で、社内でのグループが変わったんです。最初はどっちかっていうと演歌・歌謡曲班の方にいたんですが、それは違うでしょうということになり、沢田研二さんとかがいるポップス班に移ったんですね。その時に僕はキャンディーズごと異動しました。そのトップにいたのが池田道彦さん(池田潤さんとは別の方)という人だったんです。そして、そのすぐ下にいたチーフマネージャー(現場マネージャーを束ねる立場の人)が、のちにアミューズを立ち上げることになる大里洋吉氏でした。

大里さんは渡辺プロダクションのやり方や歌手の育て方、どういう新人を取ってどういう新人をとらないのかという判断基準に、大きな疑問を持つようになっていました。世の中的には吉田拓郎さんや陽水さんのような新しい時代の人が出ている中で、このまま従来のポップス歌謡曲ということでいいのか、ニューミュージックというものに対する取り組みが圧倒的に足りないのではないかということを強く感じていたんですね。それで彼は渡辺プロを辞めて独立し、実行に移し始めたわけです。

僕も渡辺プロを辞め、彼についていくわけですが、その理由はとてもシンプルでした。僕は非常に大里洋吉という男を仕事的にも人間的にも尊敬しているからです。仕事に対する真摯さがある一方で遊ぶのも大好きで、それも結局仕事にしちゃう。この人とだったら本当に一緒に仕事したい、という思いがありました。「最初は雇う余裕がないから、ひと段落したら呼ぶから来い」という話をされ、半年くらい経った時に声がかかり、渡辺プロに辞表を出しました。
梓みちよさんには「すみません、大里さんのところに行きます」と伝えたところ「良かったじゃない。あなたはそっちの方がいいよ」と言ってくださったし、会社もしょうがないかなという感じで辞表を受け取ってくれて、円満退社の形をとることができました。

こうして、僕は当時まだ所属アーティストが原田真二くん一人しかいないアミューズに移りました。

アミューズに移るも、前途多難

原田真二くんが所属していたレコード会社は、フォーライフというところでした。これは小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるの4人が設立したレコード会社です。そのため実働部隊は、その4人の所属事務所からの出向組と他のレコード会社からの移籍組という混成部隊でした。

一般的にレコード会社というのはレコードという「モノ」を売る仕事なので、ある種のドライさが必要です。新人は大方、2〜3枚で結果が出なかったら「はいお疲れさん」で契約解除。それぐらいのドライさがないと次の新人に予算を当てられない。ずるずると引っ張っていくわけにもいかないんです。

しかしながらフォーライフというレコード会社は、前述のようにレコード会社からの移籍組と音楽事務所からの出向組が多かったので、社風としてプロダクション的な色合いを濃く持っていました。それも、歌謡曲・ポップスといったすでに確立された音楽に対抗して新しい音楽をやっている、という自負をもった音楽事務所出身の人たちが多くいたレコード会社なわけです。そんな彼らにとって、原田真二くんはものすごい期待の大新人でした。

ところが原田真二くんの所属プロダクションは、誕生して間もないアミューズに決まりました。これは、上記4人のアーティストから出向して来ているスタッフにしてみるとショックだったかも知れません。なぜなら、自分たちは歌謡曲・ポップスといった既成の音楽ではない新しいものを作るんだ、芸能界的とは距離を置くんだという気持ちでやってきているわけですから。彼らからするとアミューズは芸能界のど真ん中にいた連中と映ったはずです。

レコード会社のフォーライフとしては、アミューズに決まったことを喜んでくれていました。「うちの大事なアーティストだから是非とも売らなくてはいけない」という意識ゆえにです。しかし、一部スタッフにしてみると、「歌謡曲のナベプロから独立したあっち側」に所属することになったことに対して批判的に思う人もいたのだと思います。原田くんも私たちがいないところで、そういう雰囲気は感じていたと思います。

そんな中、原田真二くんは(あの容姿だし年齢的にも)アイドルとして当たっちゃったんですね。もともとミュージシャンマインドが強い人だから、アイドル的な売れ方をしたことで余計に「芸能界」へのアンチ意識みたいなものが大きくなっていったんだと思います。そういうわけで契約は一年で終わってしまいました。

だけど僕はまあ、楽天的というか、「自分たちの才能はこんなもので終わらない」といううぬぼれというか、何とでもなるだろうと思っていました。芸能界とはある種“村”のようなところがあって、「あいつが困っているらしい」となれば会社を超えて誰かしらが助けてくれる、というのはよくある話でした。だからそんなに心配はしてなかったんですけど、会社を興したからにはそのまま潰れるわけにいかない。そこで次のアーティストを、と走り回っているうちに出会ったのが、サザンオールスターズでした。

サザンオールスターズとの出会い

大里会長がある日、ビクタースタジオに呼ばれ非常に興奮して帰ってきてたんです。「いたよ」「これしかないよ」と。それがサザンオールスターズでした。すぐ契約ということになりましたね。

しかし、彼らは最初、どうやら本気でプロになる気はなかったような気がします。卒業の記念にやろう……みたいな軽いノリというか、気持ち的には学生のバンド活動の延長線上にあったような気がします。事務所側の「スタッフ、アーティストが気持ちを一つにして売るんだ」というような思いが伝わっていたかどうかはわからないですね。桑田くんはバンドで飯を食えればいいな、とは思っていたと思いますが、「バンドで飯を食う」というのが「勝手にシンドバッド」というシングルでヒットを飛ばすっていうこととは、ちょっとかけ離れたイメージとしてあったと思いますね。

原田くんの場合はどちらかっていうと、最初から売れることが見えてたんですよ。彼に関しては本当に心配しなかった。でも、サザンに関しては「これまでにないもの」だった。フォークははある種の市民権を持っていたけれど、ロックでその前に大きく売れた人っていないんですよ。Charはそこそこ人気があったけど、事実上「ミュージシャンがちょっと世の中に出てきました」というような捉え方があった。世良さんもそうです。とにかくロックというものは好事家の好むものっていうものという域を出ていなかったので、音楽マニアは「すごいすごい」と言っていても、世の中的に大騒ぎするというところまでいかなかったんですよね。ところが、サザンはそれをやってみせた。そう思うと、やはりサザンが作ったものとそれが与えた衝撃は非常に大きいなと思います。

Q:サザンのメンバーとの「一生忘れられない!」というエピソードはありますか?

ひとつは、ファーストアルバムで持ち歌がなくなってしまったこと。会社としては、デビューシングルが当たったのだから、間髪入れずに次を出したいのですが、すぐに曲が作れるわけではない。ライブハウスでは王選手や前川清のモノマネをしてつないでいましたが、2枚目のシングルとなるとアルバムからのカットというわけにも行きません。それはもう合宿をしたり、缶詰にしたりと、あの手この手で新曲制作を作ってもらおうと必死でした。先程も話したとおりサザンのメンバーはどこか学生気分だったこともあって、焦る事務所とレコード会社との温度感のギャップもありましたから、ある種気の毒なことをしたと思います。2枚目のシングル「気分しだいで責めないで」は、文字通りゼロからやいのやいの言われて作り出した曲です。蛇足ですが、曲中で桑田くんが「ノイローゼ ノイローゼ」と歌っているのはその通りのことだと思います。そんな仕事としての音楽業界をサザンのメンバーたちに痛感させてしまった曲となりましたね。

もうひとつは、デビュー以来順調にヒット曲に恵まれてきていたにもかかわらず、半年間の「休み」をとることになったこと。彼らは数年間の活動を通じてプロとしてやっていく気持ちが完全に出来ていて、もう学生気分でデビューした頃の彼らではありませんでした。しかし、自分たちの作品を世に知ってもらうための宣伝活動への苦手意識が強くなってきた時期でもあったんです。例えばテレビに出る、雑誌の取材を受けるなどの宣伝活動に時間を割くことを、こちらが思っている以上に彼らは苦痛に感じていました。次第にサザンとレコード会社を含むスタッフサイドとの軋轢が大きくなってきて、僕たちは長い長いミーティングを何度も繰り返しました。

そこで、じゃあ何がやりたいのか?と問うと、彼らは「宣伝活動なしにレコーディングだけをやりたい」と。それならばと、半年間は他の仕事はせずにレコーディングに専念させることにしました。クリエイティブな活動を活発化させるわけだから「休業」とは言われたくなかったんですが、結局「休業」という見出しで打ち出されてしまいましたね。でも、このミーティングと半年間のレコーディング専念期間は、僕たちスタッフも彼らから多くの学びがありましたし、彼らと真に心をひとつにする大きなきっかけにもなりました。

アミューズを退社

会社の人数が50人を超えるようになってから、社内のスタッフ同士の価値観を共有することがすごく大変になってきました。アミューズのスタッフとしてのアイデンティティを感じてもらうというのかな。そういう価値観共有にすごく時間がかかるようになったんです。

その一方で、アミューズの上場の話が降って湧いたように出てきました。これには賛否両論が噴出しましたね。僕は上場の担当だったので、これはなかなか大変な作業でした。企業というのは、大きく成長していくことが宿命ではあります。でも、これまでの仕事のやり方を考えると、毎回株主の顔色を窺うことへの疑問がありました。上場して会社の透明性を示すにはルールが必要になってきますが、そうすると今までのアミューズの自由闊達さが失われていくのではないかという懸念もありました。

1999年、上場の申請を直前に控えていましたが、積もり積もったものがある日ぷつっと切れてしまい、「もういいや」と退社を決めます。こうして上場を目にすることなく、アミューズを去ることになりました。

その後はいろいろなことをやりました。海外のアーティストを招聘してみたり、ネット通販をやったりもしました。しかしいまひとつ中途半端で、アミューズを辞めて10年ほどはうろうろしていました。そんな「どうしようかな」と思っている時に、渡辺プロ時代からの友人と会ったんです。その友人はキャンディーズのレコーディングエンジニアだった吉野金次のアシスタントをやっていた人で、キャンディーズのレコーディング現場では必ず顔を合わせていました。彼とは非常に気が合って、部屋をシェアして一緒に住んでいたこともあるぐらい仲が良かったんです。そいつが、タクシーの運転手をやってたんですよ。

そこで彼に、タクシーの運転手ってどんな感じ?と聞いたら、「勧めはしないけど、まあ悪くはないよ」という。じゃあそれかな?と思ってタクシー業界に行きました。

タクシー業界へ

タクシーの運転手を始めたのは2011年です。アミューズを辞めてからの10年間ぐらいはまあいろいろなことがあって、非常に中途半端な時期でした。いろいろ考えることがあったし、ちょっとうつっぽくなったりもしました。

でも最近は、「どんなことがあっても楽しまなくちゃ」と思うようになりました。今は好きなことしかやらないことにしようと考えています。ただ、仕事はしたいなと思っていて、お金というよりも社会とのつながりをなくしたくない。例えば、こういう風に皆さんとお話をするようなことも、僕にはすごい大事なこと。あるいは人から感謝されたいという承認欲求なのかもしれないけど、やっぱり「ありがとう」と言ってほしいな、という気持ちはある。それは仕事ではなくてもいいのかもしれませんけど、やはり仕事を通じてそういう感謝をされたいなという気持ちはあるんです。

コロナの後遺症もあってずっと休みがちではあったのですが、ここ最近はちょっと暖かくもなってきて身体も回復してきたので、仕事に復帰し始めています。

池田さんから最後に……

こういう機会を作っていただいて、本当にありがとうございます。感謝しております。
まあ、なんて言うんだろうな。単なる昔話に終わってはしょうがないと思うんです。こうして皆さんに伝えることが何かの役に立てばと思っています。どういうところで何がどう響くのか、それは分かりません。その中で皆さんに響く言葉が、何か一つでもあればなと思っております。
今日はどうもありがとうございました。


後追い世代に聴いてほしい昭和ポップス3選

最後に、池田さんに「後追い世代に聴いてほしい昭和ポップス」を3曲教えていただきました。

  • 年下の男の子/キャンディーズ
  • 勝手にシンドバッド/サザンオールスターズ
  • 黄昏のビギン/ちあきなおみ

(時間の都合上、「黄昏のビギン」の選曲理由のみお伺いしました)


若いころは演歌が嫌いでした。要は寅さんのような日本的なウェットさが苦手だったんです。
転機は1986年頃。ニューヨーク出張が続いていたときに帰りの飛行機の中でたまたま寅さんを観たら、不覚にも泣いてしまったんです。私の中で何かが壊れました。今から考えると視界が広がったのです。帰国後、夢中で寅さんシリーズを一気に見てしまいました。それとともに演歌アレルギーもなくなっていきました。それまでは「美空ひばり」という名前だけで苦手意識を持ってしまっていたから、「こんな偉大なシンガーのことを知らなかった、向き合おうとしなかった僕はなんてバカなんだ」とも思いました。

「黄昏のビギン」を知ったのは、ちょうどそんなタイミング。ある日突然テレビから流れてきて、「なんてすごい歌手なんだ」と感じました。それ以来ちあきなおみさんの魅力にハマリ、今では音源はほぼ聞いているし、持っています。


そんな池田さんによるお気に入り曲のプレイリストも作っていただきました。こちらもぜひお聴きください!

最後は写真撮影

終始とても盛り上がったトークイベント。あっという間に2時間が経過しました。最後はみんなで写真撮影!

奥のモニターにはオンライン参加の方も!

その後は有志で2次会へ。池田さんも来てくださり、イベント内では聞けなかったようなマニアックな話もお聞きすることができました。

参加してくれたみなさん、池田さん、本当にありがとうございました!

みんなの感想

サザンファンの皆様、そして、桑田さん、原坊、ター坊、ムクちゃん、ヒロシさん、毛ガニさん、池田マネージャーは元気で、そして楽しいお方でした!

芸能界に携わっていた方ならではの貴重なエピソードを聞けて大変有意義なイベントでした!
キャンディーズやサザンの裏での人柄やシングルを出すときの裏話を聞いて意外に感じました。

みなさまありがとうございました!そのほかの感想・これまでの感想は#平成生まれによる昭和ポップス倶楽部にて。いつも感想を寄せてくださり、ありがとうございます。

3月・4月の催事

今月の催事も残すは交流会のみ。土曜の夜、気軽に来てくださいね!

3月の交流会

3/25(土)21~23時@オンラインZOOM
テーマ:「なぜ関西といえばブルースなのか?真剣に考えてみよう」
プレゼンター:かなえ氏

プレゼンターを務めるかなえ氏に意気込みを聞いてみました!

かなえ氏

これまで、地方と昭和ポップスにまつわる疑問を仮説を立て、検証していくプレゼンをシリーズで行ってきました。今回は、なぜ関西といえばブルースなのか?関西出身でブルースを歌う歌手はなぜ多いのか?そもそもブルースとは何なのか?を解説しながら、関西とブルースの繋がりを検証していきます。ブルースに馴染みがない方も基礎的なところから解説していくので安心してご参加ください!

4月の催事

4月の催事は、下記の日程で開催します。内容は近日中にお知らせします。

4月の交流会

4/8(土)21~23時@オンラインZOOM
4/21(金)21~23時@オンラインZOOM

4月のイベント

4/15(土)20~23時@オンラインZOOM

平成生まれによる昭和ポップス倶楽部では、ともに音楽の楽しみを共有する仲間を募集しています。お試し参加も受け付けていますので、ご興味がある方は下記からお気軽にご連絡ください。現在初月1ヶ月無料キャンペーンもおこなっていますので、ぜひご検討ください。

平成生まれによる昭和ポップス倶楽部のコラムニストとして執筆中!
最近YouTubeデビューしました。

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