【イベント】昭和アイドルの親衛隊に訊く!昭和ポップストークイベントを開催

2022年11月23日、「平成生まれによる昭和ポップス倶楽部」にて月に一度のイベントをオンラインにて開催しました。

今回のイベントは、豪華ゲストをお招きしました。全国キャンディーズ連盟の代表・石黒謙吾さんと、河合奈保子親衛隊・通称“N・C・A”(NAOKO-CANARY-ASSOCIATION)5代目隊長代理を務めた村田たいさんです!

当時の親衛隊の活動内容や、どうやって親衛隊に参加したのかなど、親衛隊目線から見るアイドルの世界をじっくりと伺いました。

全国キャンディーズ連盟の代表・石黒謙吾さん

まず最初にお呼びしたのは、キャンディーズのデビュー前から約50年に渡って熱いファン活動を続けている、石黒謙吾さん。2008年に復活した新生・全国キャンディーズ連盟の代表を務めていらっしゃいます。

石黒謙吾さん

この日はオンライン開催ながら、キャンディーズのアームカバーにビブス、さらに「蘭」と書かれたハチマキの「正装」で来てくださいました。

以下からは、できるだけお話を忠実にお伝えするするため、石黒さんによる語りの形式でお届けいたします。


「全国キャンディーズ連盟」とは?

まずお伝えしておきたいのが、全国キャンディーズ連盟は親衛隊とは違う組織なんですね。一般的なイメージの親衛隊がするような出待ち・入り待ちをしたり家に行ったりするようなことは、全キャン連では禁止されていました。

全キャン連とは別に私設の応援団体もあって、代表的なのは関東のスーパーキャンディーズ(スパキャン)など。彼らはバイクで本人たちを追いかけたりもしていました。とくに全キャン連と対立していたわけではありませんでしたが、全キャン連はステージに行ったりラジオのリクエストをしたり、レコードを買って応援するという正統派の活動がポリシーでした。そのため、全キャン連=親衛隊ではないというのは僕らにとっては大事なポイントです。
全キャン連は当時高校生だった僕よりもっと上の先輩たちが作りあげてくれた組織でした。全キャン連のこの理念は、今も踏襲していかなければいけないと思っています。

まあ、僕自身は実際、出待ち入待ちや家に行ったりしちゃってたんだけど(ホントはだめなんだけど)。その時ランは西荻窪で、スーは北千住で、ミキは世田谷代田に住んでいました。当時僕は金沢に住んでいたのだけれど、家までよく行っていましたね。とくにスーちゃんちはお店をやっていたから、電話番号も知っていました。電話をかけて「今日はスーちゃん列車でした?飛行機でした?」「羽田の方に行ったから飛行機かね?」「わかりました!」なんてやり取りをして小松空港(石川県の空港)まで行く、なんてこともありましたね。
ほかにも、西荻窪のランの家を、小さな雑誌の写真を手がかりに半日がかりで見つけるということもしていました。

とはいえ、そういうことをやってはいけないのが全キャン連だったんです(笑)。

石黒さんがキャンディーズにハマったのは?

中1の入学式の日だったと思います。1973月の4月7日、「8時だよ全員集合」を見ていたら、いちばん隅っこに女の子が3人出てきたんです。そこにいた、まだセンターではなかったランを見た瞬間「うわ、かわいい」と思い、その瞬間にファンになりました。
まだキャンディーズはデビュー前で、レコードデビューしたのはその年の9月でした。

でも流石に地方の中学生では追っかけはできないから、テレビを見るとか、雑誌の「平凡」「明星」を買うとか、レコードを買うだけ。転機は、中学3年生の最後にキャンディーズがコンサートで金沢に来たときのこと。そこで「これはやばい!」とハマりました。高校に入ると学校に行くと、なんと同じようにハマったやつが2人いた(笑)。そこから、追っかけ人生が始まったんです。
キャンディーズが解散するまでの高3の春まで丸々2年、学校は一応行っていたけど、終わったら魚屋の配達でバイト。平日も授業もサボって地方に遠征し、2年で通算100公演に参加しました。地方の高校生にしてはかなり頑張った方だと思います。

キャンディーズと紙テープ

70年代はアイドルの公演では、色とりどりの紙テープが宙を舞っていた。とくにキャンディーズのコンサートではメンバーカラーに合わせた3色の紙テープが乱舞することで有名であり、ファンにとってステージを盛り上げる必須アイテムだった。

何が大変かって、紙テープ代の用意が大変でした。紙テープは1本30円だったけれど、100本用意すると3000円。その頃コンサートの料金は1ステージ1500円の時代で、2ステージでも見ても3000円くらいだったんだけれど、昼・夜公演を見ると一日で紙テープ代が5、6000円とかかかって、もう大変。僕は問屋から仕入れてたからそれでも安かったんだけど、それでも1ステージ100本くらい持っていっていたから、すごくお金がかかりました。

(実際に紙テープを飛ばしている様子は動画を参照)

これは「キラキラ紙テープ」といって、この動画のように投げたらキラキラの銀紙が開くように仕込んでいました。銀紙を1センチ角ぐらいに切って、紙テープの横から詰め込んでいるんです。紙テープは30mくらいあるのですが、投げたときにちょうど本人の近くで銀紙が開くように距離を計算して詰め、投げていました。
この動画では狭いからあまり見えないけど、広いところでやるとブワっと銀紙が舞うんですよ。

ツアーの前とかは夏、毎日そういうことをしてました。それでもすごくお金がかかるから、シングルの部屋に6人で泊まったり、鈍行に乗るとかキセルをしながら遠征しました。結構厳しい高校だったのもあって、本当〜〜にギリギリ卒業しましたね(笑)。授業中も寝てたし、キャンディーズ漬けの高校生活でした。

紙テープはキャンディーズが最初?

そうなんです。そもそも、実は「追っかけをする」という歴史が、キャンディーズが最初なんです。それまでそんなことをする人はいなかったから。当時、「男が女の子を追っかける時代になった」と朝日新聞の記事になったのも覚えています。

紙テープに関しては、それまでも日劇ウエスタンカーニバル(歌謡ショー)とかでは使われてたけれど、本当に定着し始めたのはキャンディーズがきっかけ。1975年に『蔵前国技館10000人カーニバル Vol.1』というステージがあったんですが、そのときにはすでにかなりの数が投げられていました。

でも、そのルーツは天地真理さん。天地真理さんのステージではすでに紙テープが飛んでいたらしいのだけれど、そんなに数は多くなかった。特定のアイドルとかに対してやり始めたのはキャンディーズが初めて。

全キャン連の発足のきっかけは?

これは、アミューズの会長の大里さんが提案してリードしてくれたこと。大里さんは、キャンディーズが売れるか売れないかぐらいのときにマネージャーになった人です。そこで随分とやり方を変えるようになって、キャンディーズの楽曲にロック色が強くなっていきました。MMP(のちのスペクトラム)というバックバンドを起用したのもこのあたりです。

その流れで、大里さんが「ファンの自主組織があったらいいよね」と言ってできたのが「全国大学キャンディーズ連盟」でした(1975年の10月に発足)。当時は大学生が多かったのでそういう名前だったんですが、のちに「全国キャンディーズ連盟」になりました。
まずは東京で有志が集まり、それがあっという間にどんどん広がっていき、全国規模の組織になりました。それまでもファンクラブはあったし、仲間同士のコミュニティはあったけれど、組織立ってはいなかった。
全国9支部あって、当時高校生だった僕は北陸支部(新潟・富山・石川・福井)のぺーぺーでしたね。

大里洋吉(おおさと・ようきち)さん
大手芸能事務所・アミューズの代表取締役会長。キャンディーズのマネージャーを務めたあと、しばらくして独立し、アミューズを設立。原田真二やサザンオールスターズ、福山雅治を始め多くのアーティスト、タレントを育てる。

全キャン連の活動

全キャン連の活動としては、新曲が出ると、事前に事務所からもらった歌詞やカセットを使って、公民館でコールの練習をしていました。各支部で会報や会員証も作っていましたね。

石黒さんがキャンディーズを追っかけで大変だったことは?

やっぱり、お金を用意するのは大変でした。僕はやらなかったけど、コンサートで写真を撮りたい人は(本当はいけないけど)ベルボトムの中に望遠やカメラを仕込んだり、先に会場に入った奴にトイレの窓づてにカメラを渡したりとか、今考えるといろんなことをやってました。
あとはキャンディーズが乗っているタクシーに、タクシーで追いかけていって同じホテルに泊まったりとか。苦労というより、面白がってやっていたかな。でも今思い返してもすごく自主性が身についたし、良い経験になったなと思う。自分で紙テープの問屋を見つけて電話したりね(笑)。

あとは、ランが西荻窪から武蔵境というところに引っ越してしまったときのこと。住所がわからなくなってしまった僕は、毎日テレビ局に電話したんです。3週間ぐらい毎日ディレクターに連絡し続けたところ、最後は根負けして教えてくれました。

当時はそれが悪いことであるっていう認識はなかったし、ファンがみんな家の前にいるから、ランも一回鞄を置いて出てきて、「今日のライブどうだった?」って話してから寝たりなんかしてましたよ。ほのぼのしてました。駅に行くときにはガードしたりね。本来の意味での親衛隊でしたよ。


そうそう、そしてみんなが「おかえりなさい!」とか言ってくれるので、家の中にいったん荷物置いてからまた玄関の前に出ていって5分ぐらい「今日の番組であそこがこうだったよね」なんて話して、「じゃあ、おやすみー」って(笑)。のどかな時代でしたねー。

伊藤蘭インタビュー 第3回「キャンディーズのファンの方に守られながら会場入りするとかも」

それもこれも、誰のためというと、やっぱり自分のためというより、本人たちのため。今も昔も別に前でライブを見たいという気持ちはなくて、みんなで盛り上がったりすることが嬉しいし、常に3人がどれだけ喜んでくれるかなというのを考えていました。だから紙テープやコールにも一生懸命取り組みました。おかげさまで紙テープの芯は5秒くらいで取れるようになりましたよ(笑)。紙テープの芯は当たったら危ないから抜かなきゃいけないんです。

キャンディーズの引退宣言

僕は、実はこのコンサートに行けなかったんですよ。翌週から夏休みでいっぱい行くからいいやと思って、諦めたステージだったんです。本当に悔しかった。

でも友人は見に行っていたから、仲間みんなにその場で公衆電話から「キャンディーズ解散するって!」と連絡をしてくれました。現地では同じように連絡したい人たちが公衆電話に並び、長蛇の列ができていたそうです。

電話で解散の話を聞いたときはもう、呆然としましたね。その翌朝、電話をくれた友人が夜行バスで金沢に着く時間に、そいつの家に朝早くから集まって「どうする……」なんて話をしました。どうするも何もないんだけど。本当に呆然としましたよ。

キャンディーズの解散

でも解散が決まってからというものの、ものすごい熱狂が始まりました。なんで辞めちゃうんだ、という最初のショックから、だんだんと「解散まで目一杯応援しよう」というムードになっていったんです。そこからの伝説の始まりというのを体感しましたね。そんなに興味のないクラスメイトも「見に行く?」という感じになっていたし、一気に熱い人が増えたのはわかりました。もともとのファンたちも応援に力が入っていきましたね。

最初は僕も3日間くらい寝られない日が続いたし、本当にパニックだったのだけれど、ラジオで中央の全キャン連の人たちから「応援しよう」という呼びかけがあったりもして、やはり解散まで全力で応援しようという気持ちになっていきました。

新生 全国キャンディーズ連盟発足のきっかけは?

インターネットができてすぐの1996年頃には、すでにキャンディーズのファンサイトがあったんです。もちろんそれは見てはいたのだけれど、僕はオフ会とかにも行かずに、ひたすら一人でキャンディーズの音楽を聴いたり、ビデオを見たりして過ごしていました。そんな中、2008年に全キャン連の関連団体の代表をしていた松山さんという方とたまたま知り合いになったんです。そこで、解散30周年の節目に何かイベントをやりたいねという話になり、大里会長に手紙を書いたんです。

そこから大里会長にお力添えをいただき、僕が発起人となって「全国キャンディーズ連盟大同窓会2008」を開催することができました。キャパは2000人くらい。それも大里会長が自腹で開催してくれたんです。

その時は全キャン連の復活なんて考えてもなかったけど、この大同窓会を機に応援の声をいただいたことで、僕が代表となって「新生 全国キャンディーズ連盟」を立ち上げることになりました。

スーちゃんが亡くなって

スーちゃんこと田中好子さんは、キャンディーズの解散でいったんは引退したものの、1980年に芸能界に復帰。以降女優として活動し、日本アカデミー賞など数多くの賞を受賞しましたが、2011年4月21日、乳がんのため逝去されました。享年55歳でした。

葬儀・告別式にも参列しました。お見送りのときに「紙テープを投げよう」と言ったんですが、これには反対の声が多くて、ネットでもいろんな酷いことを言われました。すっかり参っていたけど、大里さんが告別式の前日の夜に電話をくれて、「投げなよ!」と言ってくれたんです。そのお蔭で当日、300本の紙テープを配って、出棺の時にみんなで投げることができた。
あれは、本当にやってよかったなと思います。

最初のかけ声「せーの」を行っているのは石黒さん

石黒さんの現在の目標

僕は今出版関係の仕事をしていますが、これはもともとランに会うために始めたんです。
だから2008年に初めてランにインタビューができた時に夢が叶って、ある意味そこで一区切りついた感じがしました。それ以降は余生だと思って過ごしています(笑)。

僕の最終目標は、伊藤蘭さんの葬儀に参列すること。
そのために健康第一で、僕も長生きをしたいと思っています。僕は100歳のときに蘭さんが106歳なんです、とインタビューで言ったら笑っていましたね。

来年キャンディーズがデビュー50周年なんです。もう50年近くランの声を聞いてきていて、それって奥さんよりも長いんですよね。だから本当に人生そのもので、親戚のような存在で、僕にとっていつまでも6個上の素敵なお姉さんって感じです。

こうして本人にインタビューすることができるようになったり、全キャン連の代表を務めることができるようになったのって、一番は言い続けてきたことが大きかったなと思います。言い続けることでいろんな出会いが巡ってきたんです。この前もたまたま、ランと昔付き合っていた人の親戚と遭遇しました(笑)。あとは「いまいるお店ですぐ近くにいます!」なんてタレコミが入ってくることもあります。言い続けること、アウトプットし続けることで、何かに繋がっていくところはあるのだと思います。


石黒さんのイチオシ!キャンディーズメドレー

最後は、石黒さんのチョイスするイチオシキャンディーズ楽曲をメドレー形式でお届けしました!

石黒謙吾さんInformation

石黒さんは現在著述家・編集者として活躍されており、映画化された『盲導犬クイールの一生』をはじめ多数の著書を出されています。

レコードのジャケ写を1000枚分取り上げた「昭和レコード超画文報1000枚」、昭和スポットを多数掲載した「昭和遺産へ、巡礼1703景」という昭和ポップス倶楽部の方々が興味を示しそうな書籍も昨年発売されています。ぜひチェックを!

河合奈保子親衛隊隊長代理・村田たいさん(わたぼうしさん、JR120XEさん)

さて、次は河合奈保子親衛隊の村田たいさんにお話を聞いていきます!

河合奈保子さんと村田さん

村田さんも、当時と同じハチマキをして登壇してくださいました。以下、同様に村田さんによる語りの形式でお届けいたします。


親衛隊に参加・隊長代理になった経緯

河合奈保子は1980年の6月にデビューしたのですが、最初は「八重歯の可愛い子がデビューしたなあ。いいなあ」と思い、一目見て夢中になりました。当時は松田聖子、柏原芳恵、岩崎良美、田原俊彦など沢山アイドルがいましたが、私は奈保子さんにゾッコン。ファンになり、サイン会や公開録画などにも足繁く通うようになりました。そのうち、いたるところに親衛隊がいて応援コールなどで盛り上げているのに気づき、「この人たちいいなあ」「自分も入りたいなあ」という思いを抱くようになりました。入ろうともしたのですが、その時は募集をしていなかったため、一度断られています。翌年1981年7月に親衛隊の募集があり、そこでやっと入ることができました。

親衛隊は、私がいた関東だけで、150人くらい、全国あわせると約300から350名の稼働だったと思います。親衛隊の普段の活動はリクエスト、はがき書きやコール練習など。コール練習の集会は月4、5回ありました。
その活動の中での出席率・ひたむきさ・情熱等が認められ、幹部になりました。

その後、10月には隊長代理に昇格。8ヶ月ほど務め、引退しました。親衛隊というのはファンで居る限りずっと在籍しているというものではなく、進学や就職のタイミングで引退する流れだったのです。
親衛隊として活動したのは1年8ヶ月くらい。それ以降ももちろんファンではあったのですが、親衛隊としては表立った活動はせず、OBとして応援をしていました。

親衛隊の活動で自慢できること

奈保子が1981年の10月のリハーサル中、大怪我をしてしまったことがありました。その復帰後の「夜のヒットスタジオ」に、親衛隊が応援部隊として出演したんです。もちろん全国ネットで流れました。それに出演できたことは、私にとって大切な思い出ですね。

その他にも親衛隊としてテレビに出ることもありました。公開録画で奈保子と一緒にテレビの企画で一緒にゲームをして、優勝したこともあります。

村田さんと奈保子さん

近くで見る奈保子というのは、ブラウン管を通して見る姿そのままでした。おちゃめで、天真爛漫で、いたずら好きで。本当に裏表がない方でした。

あとは就職を機に隊長代理を引退することになった最後のコンサートのあと、プロデューサーに楽屋へ呼ばれたんです。そこで奈保子が「今までありがとうございました、お疲れさまでした」と色紙をプレゼントしてくれたんです。その他に、絵馬に書いたメッセージももらいました。奈保子の優しさ、思いやりが感じられて、その後就職して仕事をしていく上での大きなエネルギーとなりました。あのときは大感激しましたね。

コール練習って?

レコード発売前にレコード会社の担当者に会ってデモテープを貰いにいくのです。私は関東本部に所属していて、関東本部が親衛隊の元締めだったので、そのテープを聴きながらみんなでコールを考えました。そこで作ったものを全国の支部に手紙や電話で連絡をします。それを見た各支部から「もっとこうした方が良いのではないか」など意見が集まってくるので、それを反映して修正しつつ、レコードの発売前にはコールが完成するという感じです。

正式にコールが決まったあとは、土日は親衛隊の聖地と言われる代々木公園に集まって、ラジカセを持っていって大声で練習しました。「せーーーの、奈保子ちゃ〜〜〜ん」と大声で。隊長は「お前ら、もっとリキ入れろ!気合い入るまで何度もやるからな」とハッパをかけながら、納得のいく夕暮れになるまで練習しましたね(笑)

気になる親衛隊についての質問

メンバーのみなさんからの質問にもたくさん答えていただきました!

隊長代理のお仕事とは具体的にはどのようなものですか?

隊長代理の仕事は、ひとつはコールリーダーと言われる、コールの統制を取ること。「せーーの」を言う役割です。あとはファンクラブとの連絡のパイプ係。毎日のようにファンクラブに顔を出して情報を得て、下に流していました。

親衛隊の役割というのは何より、とにかく応援コールで盛り上げること。あとは出待ち、入り待ちで集まったファンを排除することです。本人を無事に車に乗せて、次の仕事に向かってもらう。自己満足的な感じかもしれないですけれども、一般のファンとは違うんだ、という気概でやっていました。それでいつしか奈保子に認識されるのが夢でしたね。

親衛隊は会費は必要ですか?

会費は必要ありません。自前でハチマキを用意していて、数百単位で作っていたので、隊員からその代金は徴収していました。あとは遠征費がかかるくらいですね。

当時はペンライトがなかったから誘導灯を使ってたっていうのは本当ですか?

統制棒(日立マクセル)というのがあって、警備員の人がを使っているものなんですが、それを使っていました。コンサートで使ったのはおそらく私たちが最初です。

あとは「BRILLANT」(1982年11月)というコンサートで、みんなに白色のペンライトを渡しました。コンサートビデオでは、たまゆらのようにいっぱい光が揺れているのが見えますよ。

発売前の音源で練習していたんですか?

そうですね、レコード発売前にコロムビアからデモテープをカセットで貰えるんです。それを再生して、コールを全部考えて作ります。その草案をコピーして代々木公園で各隊員に配って、とにかくできるまでやるぞと、体育会系のスパルタ方式で練習していました。隊員心得十八戎というものもありました。「コールのときは気合を入れ、一曲で声が枯れるくらい出すこと」とか。
練習は納得行くまでやりました。そしてそれをザ・トップテンやザ・ベストテンの生中継、歌番組の公開録画などで存分に発揮し、奈保子が気づいてニッコリすれば喜ぶ、そんな単純な奴らでした(笑)。それが終わったら本人を無事に帰す、それが親衛隊の本分でしたね。

Q:きつすぎて辞めてしまう人もいたのでは?

スパルタだったので、本人と近づきたい、写真撮りたい、と安易な気持ちで近づいてきた人はやめてしまう人もたくさんいました。クビになる人もいましたね。本当に応援・コール命でしたから。「聖子の親衛隊なんかに負けないぞ」とか、他の隊に対するライバル意識もすごかったです。

Q:お金はどうしてた?

イベントや公開録画は、行けるだけ行っていたので、バイトをしたり、あとは親からの仕送りをちょろまかして工面していました。
ファンクラブの電話番や会報詰めもしていたけど、もちろん報酬はありません。でもご飯は食べさせてもらっていました。それは助かっていましたね。


JR120XEさんのお話

今回は、オブザーバーとしてJR120XEさんという奈保子さんファンの方も参加してくれていました。せっかくなのでJR120XEさんお話も紹介させていただきます。


奈保子さんデビューのとき、僕は小学校6年生でした。僕は家が大学生の専門の下宿屋をやっていたので、大学生の持っている明星や平凡などの雑誌とかを見る機会がよくあって、その中で奈保子ちゃんを見つけたのがきっかけ。「秀樹の妹オーディション」に出ていることを知り、「なんだこの可愛い子は!」とひと目で好きになりました。

僕は群れるタイプではなかったので親衛隊には入らず、一人で活動していました。でも自分の父親がマスコミ関係に勤務していた事もあり「今度〇〇にくるらしいよ」等の音楽関係の情報を先に入手する事や宣材グッズをGETすることも出来ました。新譜がリリースされる前に音楽関係者等に配られる、プロモーション盤「通称:白盤(見本盤のさらに前に作られるレコード)」というものも手に入れました。そういうレコードって歌詞もまだ手書きだったりするんです。そういうこともあってファンの度合いがどんどん上がっていきました。

これが白番の盤面(曲名の記載はありません)


白番のジャケット
白番の歌詞カード

今でも奈保子ちゃんが好きな理由というところでいうと、まず彼女の魅力というのは、とにかく分け隔てがない、裏表がないところなんですよ。僕は地方に住んでいますが、そういうところに来たときも、奈保子ちゃんは一人ひとりに、みんなに微笑んでくれる。そのインパクトがものすごく強いんです。引退宣言とかをしているわけじゃないから、そのイメージをそのまま引きずって、今でも好きなんだと思います。

奈保子ちゃんは芸能界の人って言うよりは、身近なお姉さんって感じなんです。聖子ちゃんとも仲がいいし、三原順子ちゃんとも仲がいい。中森明菜ちゃんとも仲がいいんです。それは彼女の思いやりだったりとか、やっぱりそういう人間性に共感する人っていうのが多くて、今でもファンが多いんじゃないかなと思います。


JRさんのお話を受けて、村田さんも「JRさんが言ったとおり。奈保子のファンで良かったという気持ち。そのひとことに尽きます。なんとかもう一度お目にかかりたいなと、そういう気持ちです」と漏らしました。

最後は、村田さんによる奈保子さんのイチオシ楽曲メドレーで締めさせていただきました!

村田さんのイチオシ!河合奈保子メドレー

(カッコ内は村田さんのひとことコメント)

  • 大きな森の小さなお家
    (振りがかわいい、コンサートで振り真似をやり、「飛び出せ🎵」のフレーズで、ゴーとコールして椅子から飛び上がるのが、お約束)
  • ラブレター
    (1981年10月に大怪我をした後の復帰の楽曲。我々親衛隊も、夜のヒットスタジオにて歌う奈保子の後ろで応援、感動のテレビ復帰)
  • 夏のヒロイン
    (明るく躍動感ある振り付け、応援コールもよく考えて徹夜して作成し何度か変えたりしながら完成しました)
  • ストロータッチの恋
    (私の親衛隊生活最後の楽曲で、けんかをやめて、invitationと二曲コール無し楽曲が続いた後でフラストレーションたまってた我々も応援コールを工夫して気合い入れて、できあがりました)
  • ダブルデイト
    (可愛らしい、歌詞で奈保子とダブルデイトしている場面が目に浮かぶ歌詞が好きだ。コンサートでも歌った曲)
  • ハリケーンキッド
    (コンサートでは定番の曲、コールがひときわぴったしはまる、応援のボルテージが上がります)

河合奈保子さんInformation

「わたぼうし翔んだ」復刊

今回村田さんのZoom参加等を全面的にサポートしてくれた「わたぼうし」さんは、1981年におきた河合奈保子さんのステージからの転落事故による入院の療養生活中に綴った心の記録『わたぼうし翔んだ』の復刊に向けて活動し、ついに昨年実現させた方です。

奈保子さんの率直な思いがみずみずしく綴られている著書。38年の時を経て、2021年によみがえりました。復刊前は高騰し1万円以上していたのが、わたぼうしさんを始めとする方々の努力のおかげで2420円で購入できるようになりました。

気になる方、ぜひこの機会にお買い求めください!

今回登壇・サポートをしてくださった方々


トークイベントのあと、最後は写真撮影!

親衛隊ポーズ?

密度の高いお話に、3時間の間チャットは止まることなく流れ続けていました。改めて石黒さん、村田さん、そしてサポートしてくださったJR120XEさん、わたぼうしさん、ありがとうございました!

みんなの感想

Gさん

先日のイベントは、全キャン連の石黒さんと河合奈保子親衛隊の村田さんをゲストに招いたトークイベントでした!
当時の熱狂的に推されていたアイドルへの強い思いと昭和の雰囲気をひしひしと感じることができました!

Oさん

今までほとんど触れてこなかった「親衛隊」の世界。 一般のファンの距離感を超越し、アイドルたちを直接にサポートしようという情熱、当時を知らない者からすると驚きの連続で、非常に美しく感じられました。

みなさまありがとうございました!そのほかの感想・これまでの感想は#平成生まれによる昭和ポップス倶楽部にて。いつも感想を寄せてくださり、感謝&感謝です。今後も素敵なゲストをお呼びするイベントが開催できるよう、頑張ります!

11月・12月の催事

今年もあと残すところ1ヶ月強。よい締めくくりにできるよう、

11月の交流会

★11月30日(水)21~23時@オンライン
テーマ:昭和ポップス知恵袋〜私のリクエスト、解決してちょ〜だい!〜

▲詳細はこちらから

12月の交流会

★12月10日(土)21~23時@オンラインZOOM
【昭和ポップス倶楽部的9の音粋〜昭和ポップスをJ-POPにしてみた!〜vol.5】
プレゼンター:雨玉さん

★12月23日(金)21~23時@オンラインZOOM
【60年代シリーズプレゼン】
プレゼンター:こうたさん

12月のイベント

★12月28日(水)20~23時@オンラインZOOM
【昭和ポップス倶楽部忘年会】
昭和ポップス倶楽部の2022年をさまざまな企画で振り返ります!

▲詳細はこちらから

昭和ポップス倶楽部への参加を検討されている方のお試し参加もお待ちしております。

平成生まれによる昭和ポップス倶楽部のコラムニストとして執筆中!
最近YouTubeデビューしました。

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