昭和ポップス倶楽部交流会【テーマ:日本の思春期・60年代シリーズ Vol.1/4〜青春歌謡越しに見る希望と葛藤〜】

2022年6月25日、「平成生まれによる昭和ポップス倶楽部」の交流会をオンラインにて開催しました。

今回の交流会のテーマは、「日本の思春期・60年代シリーズ〜青春歌謡越しに見る希望と葛藤〜」。以前、「にっぽんのこころ歌・60年代〜いつまでも 明日への青春を 御三家と〜」というテーマで御三家について語ってくれたこうたさんが、今回は青春歌謡全般についてプレゼンしてくれます!

プレゼン:日本の思春期・60年代シリーズ〜青春歌謡越しに見る希望と葛藤〜

日本の歴史に残るたくさんのトピックがあった年代である60年代は、高度経済成長真っ只中。まさに未来への希望にあふれているイメージもありますが、その裏側には人々の苦労や葛藤があったことも忘れてはなりません。そして、そんな人々を前へ前へと突き動かした原動力となったもののひとつがこの「青春歌謡」でした。こうたさんは前回のプレゼンで御三家こと、橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんを取り上げてくれましたが、今回はそれ以外の方々を紹介しつつ、当時の世相にも触れていきます。

青春歌謡が流行したとき、世の中ではどんな事が起こっていたか?

今回のプレゼンにおける青春歌謡の定義は、1962〜1965年に発売された楽曲とのこと。まずは、それがどんな時代だったのかを理解していきましょう。

まず1962年になると、NHKの受信契約件数が1000万を超え、地方でもラジオ放送やテレビ放送が次々と開局していくなど、メディア的な躍進がありました。

1963年に入ると、鉄腕アトムが放映開始したり、初の大河ドラマが放送開始されるなど、メディア的にも大きな躍進がありました。横綱大鵬が6場所連続優勝を果たしたのもこの年。

大きなトピックが集結した年といえば、やはり1964年。東京オリンピックに先駆け海外渡航が自由化、東海道新幹線も開通、交通網も急速に発達していったことがわかります。

1965年には、1970年の万国博覧会が大阪で開催されることが決定されます。野球界では、野村克也さんが三冠王に輝き、12月からは57ヶ月間続いたと言われるいざなぎ景気が開始。

64年にはM7.5を記録する新潟地震の発生、65年には伊豆大島の大火など、大きな災害にも見舞われてきた日本でしたが、落ち込む人々を勇気づけるかのように明るいニュースもまた絶えない時代だということがわかります。

ここからは、その次代に活躍した歌手の方々を見ていきましょう。

三田明

1947年に東京都・昭島で生まれた、三田明さん。学生時代はいつまでたっても学校から帰らず、校長先生に何度も呼び出される問題児だったとか。転機が訪れたのは1962年、「味の素ホイホイミュージックスクール」というオーディションに出場し、作曲家の吉田正さんに見いだされます。翌年、ビクターより「美しい十代」で歌手デビュー。以後、紅白に出場するなどスター街道に乗っていきますが、70年代に入るとハイジャック事件に遭遇、借金の肩代わりをさせられる、自宅が火災の被害に遭い顔面を負傷するなど、紆余曲折ありながらも歌手活動を続け、2004年には、日本レコード大賞にて功労賞を受賞しています。
御年75歳で、歌手生活は来年で60年になります。

では、ここで三田明さんのデビューに関するクイズです!

ここでクイズ!その1

三田明さんがオーディションで歌った歌は、次のうちどれでしょう?

  1. 高校三年生/舟木一夫→◎
  2. 湖愁/松島アキラ
  3. 君だけを/西郷輝彦
  4. 蟹工船/村田英雄

チャット欄では回答がバラバラに。正解はこの下!↓

正解は・・・1の「高校三年生」でした!友人に勧められるがままにオーディションに参加し、その時流行っていた曲を歌ったということで、この曲になったとのことです。 

「美しい十代」とデビュー秘話

「美しい十代」でデビューすることになった三田明さん。この「美しい十代」の「美しい」とは、三田明さんが美少年だったことからつけられました。「美しいシリーズ」と呼ばれる「美しいあした」「美しい恋人たち」という曲などもあります。

このときもらった楽譜には息遣いの仕方や、強弱のつけ方が書いてあるそうですが、歌手生活が約60年となる今でも、三田さんはこの楽譜をお大事に保管しているということです。

「美しい十代」が大ヒットした三田明さんは翌年、念願の紅白歌合戦に出場することができました。
実際の交流会では、ここでこうたさんお手持ちの貴重な音源である第15回NHK紅白歌合戦(1964)の音声「ごめんねチコちゃん」を鑑賞しました。チャットでは「そうか、この頃の紅白はラジオか!」という声が。

山田太郎

東京都・台東区に生まれた山田太郎さん(本名:西川賢・にしかわけん)は、1963年に「清らかな青春」でクラウンからデビューしました。「新聞少年」が大ヒットしてスター街道まっしぐら。その後1968年には馬主の資格を取得、当時史上最年少で JRA の馬主の資格を取っています。以後、歌手としても馬主としても活躍してきました。

ということで紅白歌合戦にも出場した「新聞少年」(1965)をまずは鑑賞。

そして、「新聞少年」と並んで「勤労少年もの」といわれる、山田太郎さんの「牛乳少年」を鑑賞しました。

吉永小百合

吉永小百合さんについては、以前の交流会「私・僕がこの人に贈りたい!国民栄誉賞」について10分プレゼン! でも発表してくれたこうたさん。橋幸夫さんと歌った「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞したほか、1988年には映画出演数が100本に到達、2006年には紫綬褒章も受賞するなど、多大な功績を収めている女優・歌手です。御年77歳です。写真が出た瞬間、チャットでは「惚れ惚れしますね」「人気出るの分かりますわ」と絶賛の嵐。

そしてここで、デビュー曲である「寒い朝」(1962)を鑑賞。交流会では、こうたさんが発掘された紅白歌合戦の貴重な音声を楽しみました。

こちらも作曲は吉田正さん。吉田正さんの出身である茨城県日立市のJR常磐線日立駅の駅メロともなっています。

交通普及と都市発展

吉永小百合さんからもう2曲ということで、三田明さんとデュエットした「若い二人の心斎橋」(1965)を鑑賞。大阪の都市発展を讃えた歌として、非常に人気になった楽曲です。

もう一曲は、橋幸夫さんとデュエットし、ANA(全日空)のキャンペーンソングとなった「そこは青い空だった」。海外渡航が自由化された、1964年4月に発売された楽曲です。

青山和子

1946年に京都府で生まれた青山和子さん。第8回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。この大会には島倉千代子さん、五木ひろしさん、神戸一郎さん、都はるみさんなど、名だたる歌手の方々がここからデビューし、コロンビアの専属歌手として今も活躍されています。1960年に本名の榊原貴代子名義で「さみしい花」でデビューしましたが、1963年に「青山和子」に変更。プロデューサーの酒井政利さんが「ベストセラーを歌にしよう」として作られた「愛と死をみつめて」でレコード大賞を受賞。歌手活動生活も、早60年になっています。 

参考:【追悼】天才かつ事件屋とよばれた、伝説のプロデューサー・酒井政利

ここで「愛と死をみつめて」を鑑賞。実際は1964年の紅白歌合戦の音声で楽しみました。青山和子さんにとっては、これが最初で最後の紅白出場となりました。

3番まであるこの歌ですが、「まこ…」にはそれぞれ異なる工夫がされているのだとか。

  • 1番→苦しいけど頑張る「まこ」
  • 2番→彼との感謝と思い出を述べる「まこ」
  • 3番→自分の分まで生きてと願う「まこ」

そして、青山さんは当時のことをこのように語っています。

小説が大流行をしていて、高校生の冬頃、学校の帰り道に新橋のコロンビア本社の部長から『君が歌うことになった』と聞かされてびっくりしました。どういう背景があるのかわからなかったけど、一生懸命怖いもの知らずで歌っていたんでしょうね。

さて、ここで突然ですが第2問目のクイズです!

ここでクイズ!その2

当時の女子小学生のの将来なりたい職業ランキングで一位をとりつづけていた職業は?

  1. 事務員
  2. デザイナー
  3. スチュワーデス
  4. エレベーターガール

チャットでは「3」のスチュワーデスが多かったですね。正解はこの下!

みんなの予想通り、正解は3のスチュワーデス。いまではスチュワーデスという呼び方自体がキャビンアテンダントに変わってしまっているため、時代を感じますね!

ということで、ここで青山和子さんの「憧れのスチュワーデス」(1964)を鑑賞。こちらは海外渡航自由化の一ヶ月後に発売されました。「そこは青い空だった」はANAでしたが、こちらはJAL(日本航空)のキャンペーンソングでした。ジャケット写真の制服はJALの公式のものだそうです。

二代目コロムビア・ローズ

初代コロムビア・ローズの引退後、「二代目コロムビア・ローズ」募集オーディションによって3500人の中から選ばれた二代目コロムビア・ローズさん。1962年に「白ばら紅ばら」でデビューし、1964年には「智恵子抄」を大ヒットさせ、NHK紅白歌合戦にも出場しました。
1970年に渡米し、ロサンゼルスを中心に歌手活動を行っていましたが、2020年に78歳でお亡くなりになりました。

次とり上げるのは、エレベーターガールをとり上げた職業歌謡「デパートの花」(1963)です。デパートにてお客さんを階ごとに案内する女性のことを指しますが、日本では1929年に松坂屋の上野店で取り入れられたのが始めだと言われています。独特の制服が、ファッションとしても話題になりました。
バブル崩壊後に廃止が進み、発祥でもあった松坂屋の上野店でも2006年には常駐ではなくなり、2007年をもって完全に廃止。今ではほとんど見ることができなくなりました。

「いらっしゃいませ いらっしゃいませ」という語りが印象的です。

本間千代子

1945年に生まれた本間千代子さんは、東映児童研修所を卒業したあと、60年代に数々の青春映画に出演するようになりました。その後歌手の守屋浩さんと結婚しますが、のちに離婚されています。

ここでクイズ!その3

ここで紹介したいのは、ある「スポーツ歌謡」。本間千代子さんがある有名な野球選手とデュエットした楽曲がありますが、いったいそれは誰でしょう?

  1. 長嶋茂雄
  2. 金田正一
  3. 江藤慎一
  4. 王貞治

正解は、実際に聴いてみましょう!

白いボール(1965)

ということで正解は、4の王貞治さん。王さんのホームラン55号を記録した時に記念で出されたのだそうです。ちなみに長嶋茂雄さんにも声をかけたのだそうですが、歌が苦手だということで断られてしまったのだそう。

そして、今回最後の一人をご紹介!

高石かつ枝

「ほとんど知っている人はいないかも」とこうたさんが前置きして紹介したのは、高石かつ枝さん。童謡のレコードを多くリリースしています。「林檎の花咲く町」では紅白初出場も果たしています。

ということで今回最後の曲は、東京オリンピックの記念の愛唱歌として作られた楽曲をご紹介!

「海を越えて友よ来たれ」藤原良・高石かつ枝(1963)

B面は「東京五輪音頭」となっています。

プレゼン自体はここで終了!

グループディスカッション

最後に、「青春歌謡を聞いて、当時の方々の立場になり、その価値観や受けた衝撃を考えましょう」をテーマに、プレゼンを受けて考えたこと、感じたことをシェアしました。

青春歌謡はポジティブさに溢れてる。影があまりなくて、純粋に曲が人々を活気づける役割を担っていたんだろうな。そういう明るさが伝わってくる。

景気日本がこれから元気になっていくという感じがあって、世界では紛争や戦争が起こっていたはずだけれど、今より情報が入ってこないから・・・景気がうなぎのぼりで活気づいていたんだなぁと。

世相がそのまま音楽の世界でも反映されてる。あの時代には尾崎豊も西野カナも出てこないのでは?

最後に、今回のプレゼンターであるこうたさんは、人間関係に恵まれずにいたとき、青春歌謡は心を癒してくれた大切な存在であることも明かしてくれました。時代を超えて人を勇気づけてくれる青春歌謡の魅力が、今回のプレゼンで多くのメンバーにも伝わったのではないでしょうか?

まとめ

  • 青春歌謡は、葛藤する若者に希望の力を与えた。
  • 女性の社会進出が加速していたことが音楽からも確認できる。
  • 若年勤労者を下支えとして、高度経済成長の一翼を担った。
  • 青春歌謡は当時の若者を魅力した。

60年代についてはあまり知らないという人も多い当コミュニティですが、今回で知識としても、感情としても青春歌謡がどんな存在だったかを理解することができました。こうたさんによる60年代シリーズは全4回。あと2回も楽しみですね!本当にお疲れさまでした。

最後は恒例の写真撮影!

プレゼンターのこうたさん、参加してくれた皆さん、ありがとうございました!

みんなの感想

プレゼンターをやってみての感想

こうた

60年代に生きてない平成生まれの自分が嗜好した青春歌謡に支えられて生きてきたんだな、と感じました。収集している60年代の紅白やレコ大等の当時の放送資料を見聞きする度に不思議とタイムスリップした気になり、胸が高ぶります。

準備で大変だったこと

こうた

枠内に収まるよう、歌手の誰を取り上げようか、曲やその秘話は何にしようか考えることが一苦労でした。選曲時メジャーマイナー関係なくバランスを揃えるのも大変だったことかもしれないですね。

今回のプレゼンでいちばん伝えたかったこと

こうた

前回お話しした御三家だけでは留まらないドラマが青春歌謡にはあります。当時の出来事が歌で反映され、やがて後世に残る一環として、誰かの葛藤に打ち勝つだけの希望をもたらしてくれる青春歌謡はやっぱり素晴らしいと思います!

参加メンバーの感想

Kさん

今日の交流会は60年代の青春歌謡について。高度経済成長期という時代背景もあってか、ポジティブな作風が多く、新聞配達やスチュワーデス等といった職業ソングには社会の急速な変化が垣間見えた気がしますし曲が持つ力も今以上かもしれないと感じました

Oさん

60年代の歌謡曲を深く見ていくと、戦後間もない日本の急変する時代背景と密接に結びついたものが多数見られる印象が。
良くも悪くもあまりに多様化され過ぎた現代の大衆音楽に対しては成り立ちにくい、この時代の文化ならではの考察だと感じました。

感想をよせてくださったみなさん、ありがとうございました!

7月の催事

直近の交流会・イベントは下記日程で開催されます。多くの地域で梅雨も明けたことですし、7月も楽しく交流していきましょう!

交流会

日時:7/9(土)21~23時
方法:オンライン@ZOOM
テーマ:「昭和ポップス倶楽部的9の音粋vol.3 後編」
プレゼンター:雨玉さん
前回のプレゼン:昭和ポップス倶楽部交流会【テーマ:昭和ポップス倶楽部的9の音粋〜昭和ポップスをJ-POPにしてみた!Vol.3〈前編〉〜】

日時:7/21(木)21~23時
方法:オンライン@ZOOM
テーマ:「さぁ!今日から君もDJデビューダァ!昭和歌謡曲をDJでlet’s play!!」
プレゼンター:タッピーさん
前回のプレゼン:昭和ポップス倶楽部・オンライン交流会【テーマ:アナログレコードで昭和歌謡曲を聴こう!】

イベント

日時:7/30(土)
内容:現在、企画中。詳細は後日発表します!

平成生まれによる昭和ポップス倶楽部のコラムニストとして執筆中!
最近YouTubeデビューしました。

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