「好き」のツマミを回す手に寄り添う

昭和ポップスには全然関係ないジャンルですが、趣味というざっくりとした視野でリンクさせてコミュニティに想いを馳せたことです。この前ふと映画の上映情報を見ていて、たまたま発見した「さかなのこ」という映画を観に行くことにしました。

こんなストーリー!

「さかなのこ」は、さかなクンの自伝的小説を映画化した作品です。子どもの頃からお魚に夢中のミー坊(さかなクン)。就職を考える高校生になっても、お魚への熱量は変わりません。卒業後、お魚の仕事がしたくて、いろんな職業を転々としますが、うまくいきません。それでも「好き」を貫き続けるミー坊が、人との出会いや優しさに導かれ、自分の道を見つけていく物語です。映画「さかなのこ」公式サイト

印象に残ったポイント

①とことん応援してくれる母親の存在
ミー坊は幼いころ、タコに心を奪われたことをきっかけに、様々な魚介類にのめり込み始めます。母に連れて行ってもらった水族館では、蛍の光が流れてもなお、水槽にくぎ付け。
そんな姿を微笑ましく見守る母は、ミー坊に一冊の図鑑をプレゼントします。自宅では自分の部屋が埋もれるほど、たくさんの水槽とお魚たちを飼い始め、熱は高まる一方。

父が不安そうに「ミー坊は普通の子とは少し違うだろう」と口にした時も、母は「普通って何ですか?」と意に介さず。進路指導の先生から成績不良で、勉学への姿勢を問われた時も、何よりミー坊の意思を尊重していました。良し悪しや、子供に対して誰にでも真似できるかはさておき、無条件に「好き」を認めて応援してもらえるというのは、とても心強かったのではないかと思います。

②「好き」を貫くミー坊の無邪気さ
ミー坊のお魚好きはブレません。さかなクンの今日の活躍は数知れずですが、そこに至る過程において、「やらされている」あるいは自らの意思とはいえ向き合わざるを得ない「血のにじむような努力」といった「闘い」の色はありません。また「他の人と比べて想い通りにいかない」ことへの悲壮感も皆無。実際の本人の心境は分かりませんが、少なくとも映画を見た限りでは、ただただお魚のことを考えることが「楽しい」。楽しくて仕方がないといった様子。

もしかしたら、本当は大変なことや辛いこともあったのかもしれませんが、無邪気にお魚という憧れの存在を追っている時間は、辛苦も忘れて没頭できるのでしょう。ミー坊にとって幸せそのもの。好きこそものの上手なれという言葉もありますが、お魚のことについては日常的に「ゾーン」に入っているようなもの。きっと誰にも負けない知識と実績の礎になっているのではないかと思います。

昭和ポップス倶楽部に想いを馳せて

《大人になっても「好き」に正直になれる環境づくり》
自分の趣味に対する想いや熱量をどれくらい気兼ねなく出せているでしょうか。そもそも「好き」なことを表明し、分かち合える場所はどれくらいあるのでしょうか。そして、昭和ポップス倶楽部は「好き」への熱量をあげたいとき、開示したいときの、気持ちのツマミをあげることに貢献できているでしょうか。趣味人口が多ければ、自分と同じ趣味の人を見つけることは難しくないかもしれませんが、狭まれば狭まるほど、喜びや魅力を共有できる人は見つけにくくなります。

昭和ポップスは、リアルタイムで生きていなかった20代・30代のぼくらにとって、ニッチの度合いは高い部類に入るでしょう。学校や会社、家族、その他にも色々な場所に所属をしていて、昭和ポップスに対する「好き」を日常的に分かち合えた人は少ないかもしれません。なんとなく言い出しにくい、と開示することすら諦めてしまうケースもあるのでしょうか。

ミー坊は周りの目を気にせず、溢れんばかり愛情をお魚に注いできたが、自分がもしミー坊だったらと考えると意外に難しいのかもしれないとも感じます。精神的な部分で縮こまってしまいそう。劇中で、どんな時でもミー坊の味方をしてくれた母の存在が、どれだけ心強く映ったことか。昭和ポップス倶楽部はメンバーにとって、ミー坊の母親のような存在になれているかを翻って考えてしまいます。まだそれほど大きくない規模のコミュニティを見つけ、活動に対する興味や想いへの共感という、気持ちのフックに引っかかった者同士が集まる場。

昭和ポップスと一口に言っても、長い昭和時代で好きな時代やジャンルは様々です。それでも「昭和ポップスが好き」というニッチな膜の一つを飛び越えて内側に入ってきてくれただけで、お互いの精神的なハードルは下がります。ニッチの度合いに比例して、仲間を見つけた喜びや安心感も高まる。その安心感が外界で閉ざした(必ずしも閉ざしているわけではないが、抑制はしているかもしれない)心の殻をむいて、無邪気な「好き」が顔を出してくる。

コミュニティに感じる可能性は、運営をはじめとして、みんながミー坊の母のようになれることです。どうすればよいのかという最適な方法は、時期や規模、メンバーや内容によっても様々ですし、一発の打ち上げ花火で終わることでもありません。例えば、交流会やイベントの始まりでお知らせをしている「ガイドライン」もポイントの一つです。声が出せないときもzoomのスタンプやチャットで反応をしたり、他の参加者の話に耳を傾けることなど、特別な内容ではありません。でもそれが、受け手には励みになります。「好き」をさらけ出す仲間をみんなで受け止めていきたいという想いで、毎回ガイドラインを伝えているのです。

自分の「好き」は聴いてもらえることは嬉しいものです。それをなかなか表に出すことができないと、どうにも生活にハリが生まれにくい。熱量のツマミをあげることができず、もがいている状態です。みんなの受容、傾聴は、本人がツマミをあげようとする手に寄り添う支えとなりうる。みんなで協力して支えれば、重いツマミも軽くなる。ちょうどよい目盛りまで持っていくことができる。コミュニティは誰もがミー坊となり、ミー坊の母にもなれる可能性を秘めています。それを信じて、これからも一歩一歩進んでいこうと思います。

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