45年前の1978(昭和53)年の1月19日
日本の音楽史、テレビ史に残る番組がスタートした。
毎週木曜日の21時から始まるこの番組は、新鮮な音楽でお茶の間を賑わした。
延べ12年間に渡って、日本中を賑わしたその番組は「ザ・ベストテン」
今回は、「ザ・ベストテン」が何故、多くの方々に愛され、支持されたのかをリアルタイム世代ではない者の視点で考察していく。
リアルである
「ザ・ベストテン」の逸話として、一番始めに語られるのが当時のトップアイドル山口百恵を第1回の放送に登場させなかったことである。
当時の歌番組は、テレビ局側が「この歌手に出てほしい」と事務所にオファーを出して、出演してもらういわゆる「キャスティング方式」が主流であった。
だが、「ザ・ベストテン」は番組独自のランキング形式(ハガキ、レコード売上、ラジオ、有線放送の数値を得点化したもの)で10位以内に入っていなければ出演させることはなかった。
第1回の放送があった1978(昭和53)年1月19日のランキングでは、山口百恵の楽曲「秋桜」は12位、「赤い絆」は11位と10位以内にランキングされていなかったので、山口百恵は出演しなかった。
逆に10位以内にランクインしても、番組に出演しなかったアーティストもいた。
番組放送開始当時、“ニューミュージック”と呼ばれる歌謡曲とは一線を画す新しいジャンルの音楽が流行していたのだが、ニューミュージック系の歌手はランクインされていても、番組に登場することはなかった。
第1回の放送では、中島みゆきの「わかれうた」が4位にランクインされたが、スタジオに登場しなかった。理由を司会の久米宏が「新作のLPをお作りになっていて…」と正直に説明していた。
久米宏とともに司会を務めた黒柳徹子は「どんなことがあってもランキングに嘘はつかない」という条件で司会のオファーを承諾し、毎回必ず1位から100位まで集計したデータを番組スタッフに見せてもらっていたが、当時のトップアイドル山口百恵が出演できなかったり、ランクインしている歌手がスタジオに登場しなかったり、良い方向でも悪い方向でも「ザ・ベストテン」は正直でリアルな番組であった。
“ライブ”である
生放送であるが故のハプニング、緊迫感も「ザ・ベストテン」の魅力のひとつである。
郷ひろみが同じTBSの時代劇ドラマの収録を終えて『ザ・ベストテン』に出演する予定だったのだが、ドラマの収録時間が延びてしまい、番組エンディングのギリギリで歌ったことがあった。
この時、誰よりも焦っていたのが司会の久米宏であった。ADやタイムキーパーといったスタッフと慌てながらコミュニケーションを取り、間にCMを挟んだりしながら郷ひろみに歌ってもらうところまで漕ぎ着けた。
“追いかけます。お出かけならばどこまでも”
歌手のツアー先、ロケ先、もしくは移動中の新幹線の駅や車内、空港のタラップから中継を行い、歌うこともあった。
80年代を代表する女性アイドル、松田聖子の初登場は羽田空港からの登場だった。その際、飛行機の到着時刻が予定より5分早くなりそうだった。登場時刻に飛行機が着陸するように、番組スタッフが航空会社に飛行機の速度を落とすように依頼した。
予定通りに事が進むのかどうか分からない、ハプニングやトラブルが常に隣り合わせに存在する生放送ならではのライブ感も「ザ・ベストテン」の支持された大きな理由のひとつであり、その歌手が今、どこで、何をしているのかを共有できるのは現在のSNSでのLIVE配信に通ずるものがある。
「ザ・ベストテン」が何故支持されたのか?
「ザ・ベストテン」はスポーツ中継と同じだったから、支持されたと思う。
予定調和があるにせよその通りにはならない、もしかすると悪い結果になるかもしれない…そのリアルな事実を視聴者にありのままの状態でお伝えしたり、視聴者が好きな歌手が登場できるようにハガキを送ったり、レコードを買ったりして応援するのは、普段はスポーツに興味がない方でも、4年に1度のスポーツの祭典の時には同じ日本選手の活躍に熱狂し、応援するのと同じような思考ではないだろうか?オリンピックや野球のWBC(ワールドベースボールクラシック)、サッカーのW杯などのスポーツ中継に手に汗握るのと同じである。
現在とは違いSNSや携帯も無い時代なので、“推し”を応援していることをアピールするのは“いいね!”ではなく、ハガキや、レコードを買う、コンサートに行くといった手段に限られていた。“推し”の姿を見るのも、雑誌やTVに限られていたので、その様子は現在に比べてリアルだったのではないだろうか?その行動がリアルに結果となって現れるのが「ザ・ベストテン」だった。
「「ザ・ベストテン」はスポーツ中継と同じだった」!。
そうか!野球中継やプロレス番組の延長線にあったスリリングな楽しさ!。目から鱗の指摘。