【エッセイ’93】07_MOON

“親”になってからというもの、作品の見方が変わってしまったものがいくつかある。

たとえば、「クレヨンしんちゃん」。

最近Youtubeで公式が昔の作品を公開しているのもあり、懐かしくて観るのだが、
どうもしんのすけの側じゃなくて、みさえの視点で見てしまうことがある。
とくにみさえとひまわりとのやりとりについて、
あ~、わかる。とか、こうなるのかな~、とか思ってしまうのだ。
アニメなのであくまでフィクションだというのはわかってはいるが、
どうも昔とは見方が変わってしまったな、と思う。

昭和ポップスでいうと、REBECCAの「MOON」。

レベッカは中学生のころから大好きで、友達のお母さんからCDを借りるほどに好きだったし、
中古ではじめて買ったCDもREBECCAの「POISON」だった。
そのころはやっぱりティーンの心をよく体現してくれていると思って全てに共感していたし、
聴くたびにジュブナイル小説を読むようなドキドキ感を感じていた。

レベッカはずっと好きなので、しばしば聴いてはいたけれど、
最近、「MOON」を聴いていて「あれ?」と思った。
わたし、”ママ”の側に立って聴いてるな???

「初めて歩いた日のことも」という歌詞にグッときて泣きそうになった。
こんなこと、今までなかった。

前までは、黒いリストに名前を残す”娘”の立場で聴いていたのだろう。

しかし、この視座が変わる体験はどの曲でもできるわけではないと思った。
たとえば、松田聖子「私だけの天使~Angel~」は松田聖子が娘に向けて歌った曲でまさにママの視点で歌われているのだが、
私はこの曲にもともとなじみがなかったので、視座の変化を味わえないのである。
すでに”ママ”の視点で聴くことしかできない。

つまり、もともと聴きなじんだ背景があり、ライフスタイルや環境などの変化を経るからこそ、曲に対する感じ方や捉え方が変わる体験ができるのである。

こういう体験は、人生の中であとどのくらいできるだろうか。

もしかしたら、そのうち、大泉逸郎「孫」とかが沁み入るようになるのだろうか。

私がレベッカを聴き始めたのは00年代後半なので、
レベッカのピーク(80年代後半)から20年ほど経っていたが、
それでも刺さる歌詞やメロディ、ボーカルNOKKOの魅力はすごいと思ったし、
「MOON」をはじめレベッカの他の曲だって、これからのティーンにも刺さっていくんじゃないかと思う。

ということは、自分の娘のティーン期にもレベッカが刺さって、……という循環もあるかもしれない。と思うと、少し面映ゆいような気もする。

昭和ポップス倶楽部メンバー。好きなのはガンダムとチョコあ~んぱん。

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